量子並列性に基づく超高速計算とは
この「量子並列性」とは何か?私達の生きるマクロな日常世界では、白はあくまで白であり、決して黒ではない。しかし量子力学によって説明される極小の世界では、「白は白であると同時に、黒でもある」という奇妙な状況が成立する。要するに、一つのモノが同時に幾つもの異なる状態を取り得る。これが「量子並列性」と呼ばれる現象だ。
量子コンピュータでは、この量子並列性を利用して、一台のコンピュータの内部に自らの分身を無数に作り出す。これら無数の分身が協力して一つの仕事をこなすので、その結果として超高速の計算が実現されるのだ。
これについて、(一種の比喩として)よく引き合いに出されるのが、迷路の出口を探索する計算だ。従来のコンピュータであれば1度に探索できる経路は1通りだが、量子コンピュータは無数の分身を使って1度に何通りもの経路を探索する事が出来る。結果的に従来型コンピュータよりも何倍も早く迷路の出口を探し出すことができる(=何倍も早く仕事を終えることができる)。
これが「量子高速性(quantum speedup)」あるいは「量子超越性(quantum supremacy)」と呼ばれる現象だ。いずれも、スパコンをはじめ従来型のコンピュータでは絶対に到達できない、あるいは(循環論法になるが)量子コンピュータのみが到達できるとされる超高速計算を意味する。それは従来のコンピュータが、ほとんど原始時代の石器のように見えてしまうほどのスピードアップなのだ。
何のために使われるのか
量子コンピュータの活躍が期待される分野は、「NP困難(Non-deterministic Polynomial-time hardness)」などと呼ばれる特殊な問題群だ。
たとえばセールスマンが多数の都市を一度ずつ巡って元に戻る巡回コストの最小値を計算する有名な「巡回セールスマン問題」など、一般に「組み合わせ最適化」と呼ばれる問題が「NP困難」の一例としてよく引き合いに出される。一見、簡単そうな問題だが、都市の数が3つ、4つ・・・と増えていって、ある段階に達したところで、計算量が爆発的に増加するので手に負えなくなる。
これらは、計算方法は分かっても、それに従って実際に計算しようとすると現在最速のスパコンを使っても有限の時間内には解けない問題だ。このような難問は、IT、金融、医薬品、航空、軍事など様々な産業分野に存在し、それらを解くために異次元のスピードで動作する量子コンピュータの出現が待たれているのだ。
一方、もしも本格的な量子コンピュータが実現されたとすれば、公開鍵暗号RSAなど従来の暗号が容易に破られてしまうため、ITや金融業界の他、国防・諜報活動など安全保障の分野でも新たな懸念事項となっている。このため各国政府は量子コンピュータでも破ることのできない量子暗号技術の開発を進めるなど、ほとんど切りがないような周辺技術の研究も促している。
現時点の”量子コンピュータ”とは
ただ、少なくとも現時点で、実用化の段階に達した量子コンピュータは存在しない。現在、”量子コンピュータ”と呼ばれている計算機は、事実上、試用段階のものであると同時に、それが本当に量子コンピュータであるか否かさえ評価は定まっていない。言い方を変えれば、それら試用段階の”量子コンピュータ”が、本当に量子超越性を達成したか否かは現時点で確定できていない。
これについて、ごく最近のケースでは2019年にグーグルが自社開発したマシンで量子超越性を達成したと英国の科学専門誌ネイチャーに発表した。同社が開発した量子プロセッサ「シカモア(Sycamore)」は、(スパコンのような)超高速の従来型コンピュータで1万年以上かかる特殊な計算問題を僅か200秒でやり終えたという。
しかし、この主張に対してはIBMが即座に反論した。グーグルが「従来のコンピュータなら1万年かかる」とする計算問題は、実は既存のスパコンでも2日半あれば計算が終わるという。要するに「この程度の計算では量子超越性を達成した証にならない」と言っているのだ。
また翌2020年には中国科学技術大学などの研究チームが、「光を使った量子コンピュータで量子超越性を実現した」と米サイエンス誌に発表した。「現在最速のスパコン(日本の富岳のこと)を使っても6億年かかる、ガウシアン・ボソン・サンプリングと呼ばれる特殊な計算問題を200秒でやり終えた」という。
しかし、グーグルと中国チームのいずれのケースでも、私達の生きる現実世界に貢献するような実践的な問題を解くことはできない。これらは、あくまで量子高速性を証明するための実験機、ないしは実験装置に近いような存在だ(図2)。
他方、(次回連載から紹介する)カナダのD-Waveや米IBM等は既に”量子コンピュータ”を製品化し、これらはドイツの自動車メーカーやカナダの大手食品小売りチェーンをはじめ産業各界で利用されている。が、いずれも「将来に備えて、今から量子コンピュータの使い方に慣れておこう」とする目的である。
それら産業各界に巻き起こる実際の問題を解くためには、これら”量子コンピュータ”よりも、むしろスパコンをはじめ既存の高速コンピュータを使った方が早く計算を終えることができる。つまり現段階の量子コンピュータは、ユーザがその使い方を学ぶためのテスト用マシンなのだ。
逆に言えば、実用に足る本物の量子コンピュータとは、現存しない、あくまで未来の超高速コンピュータなのである。
KDDI総合研究所リサーチフェロー 小林 雅一