エビデンス(科学的根拠)に基づく医療(Evidence-Based Medicine: EBM)が広まったのは1990年代と、意外と最近のことである。それ以前は、経験や慣習がものを言い、同じ病気でも医師や地域によって治療法が異なることは珍しくなかった。
現在では、EBMの概念はEBP(Evidence-Based Practice)として、教育やスポーツの世界にも広がっている。実際、スポーツ現場でもエビデンスという言葉を昔より耳にするようになった。また、日頃スポーツ現場に足を運ぶことがない読者であっても、トップアスリートの躍進に科学が貢献しているというメディアの報道を見聞きした人もいるだろう。
一口にエビデンスといっても、色々あるが、ベースは査読付きの論文にある。そもそも査読とは、論文の質を高めるために、同分野の研究者が内容を評価し、審査する仕組みのことだ。このシステムは、決して完全ではないものの、一般書籍や専門家の意見とは一線を画し、EBMやEBPの根幹を支える重要な仕組みである。実際、科学的根拠に基づくかどうかを判断する際に、査読付き論文の有無を一つの基準として参照する姿勢は、少なくとも専門職の一部では重視されつつある。つまり、私たちがエビデンスに基づいた効果や機能を求める際には、その知見が査読を経ているかどうかを確認することが、判断の出発点となることが少なくない[1]。
しかし、スポーツの世界は変化が早く、研究による検証が追いつかないことも多いため、EBPを実践するのは容易ではない。ここでは、近年、市民ランニングでも多くのランナーが履くようになった厚底カーボンシューズを題材に、「エビデンスに基づく」とは何かを考えたい。
「4%」のエビデンス
NIKE社が2017年に発売した初代の厚底カーボンシューズ、『ヴェイパーフライ 4%』は、エビデンスにも裏付けられていた。そのエビデンスとは、スポーツ科学界で権威のある論文誌『Sports Medicine』に2017年11月に掲載され、従来のマラソンシューズと比較して、明らかに優れていることが示されている[2]。
より具体的には、どれだけエネルギーを節約しながら走れるのかを示すランニングエコノミーが、このシューズを履くだけで約4%改善するというものだ。これがどれほどのインパクトかというと、男子マラソンにおいて約30年分の記録更新に匹敵する。履くだけで30年分の進化を一気にもたらす、それくらいの衝撃だ。
また、この論文の研究結果はNIKE社が直接関与していたため、エビデンスの提供だけでなく、プロモーションとしても大きな効果を生んだ。実際、論文の社会的注目度を示すAltmetricスコアを見ると960と極めて高い[3]。多くの論文が0や一桁台にとどまる中、100超えでも話題と言えるのに、この数字は異例だ。
追いつかないエビデンス
近年ではNIKE社にとどまらず、国内外のメーカーが競うように新型の厚底カーボンシューズを次々と発売している。しかし、全てのメーカーのシューズの性能に十分なエビデンスがあるかと問われれば、必ずしもそうとは言えない。仮にエビデンスが存在していても、多くは市場投入後の後追いで、シューズの入れ替わる速さに科学的な検証が追いついていないのが現実だ。
例えば、2024年6月に『Sports Engineering』に掲載された論文[4]では、あるメーカーの2つの厚底カーボンシューズのランニングエコノミーが比較されていた。しかし、その対象モデルは2022年発売のもので、2024年の下半期には市場からほぼ姿を消していた。
これは、エビデンスが作られるまでに時間がかかる仕組みも一因だろう。エビデンスを作るためには、研究計画の立案から倫理審査、対象者リクルート、実験、データ分析、論文執筆、そして査読まで、長い道のりが待っている。しかも、審査や査読で差し戻されれば、このプロセスを逆戻りすることもある。こうした時間的・構造的な制約を考えれば、エビデンスが後手に回るのも無理はない。
こうしたエビデンス形成の遅さに対応するアプローチの1つが「プレプリント」の存在だ。プレプリントとは、査読前の論文をオンラインで公開する仕組みで、近年、スポーツ科学でも利用が増えており、研究結果をいち早く公表する手段として活用されている。
ここでも実例を1つ挙げよう。少し前、ランニング界隈で高い注目を集めているPUMA社の最新の厚底カーボンシューズに関する研究が、プレプリントとして公開された[5]。この研究は、そのシューズが他社の厚底カーボンシューズに比べてランニングエコノミーをさらに著しく改善することを報告しており、さらなる記録短縮の可能性を示唆する興味深いものだ。また、この研究結果はNIKE社の場合と同様、プロモーションにも活用されている。ただし、前述の通り、プレプリントは査読を経ていないため、慎重に受け止める必要があるだろう。
「エビデンスに基づく」ためには?
いずれにしても、「エビデンスを待っていたら遅い」というのは、ある意味で真実だろう。では、そんな中でも「エビデンスに基づく」ためにはどうすればよいのだろうか。
それは、まだ査読付き論文が発表されていない段階でも、先行研究やその分野の原理原則をもとに、論理的に考える力ではないだろうか。例えば新作シューズが登場したとき、「ランニングエコノミーに影響する要因は何か」「そのシューズ構造は従来品と何が異なるのか」といった視点で思考を巡らせることが重要だ。
少し踏み込んだ話になり、読者を置き去りにしてしまうかもしれないが、厚底カーボンシューズを比較した研究が発表されたときは、シューズの固有名詞だけに注目するのではなく、その特徴、例えばカーボンの曲率、ミッドソール素材、曲げ剛性といった要素にも目を向ける。さらに、論文の中身を精査し、研究デザインや条件設定の違い、利益相反の有無などを理解する姿勢も欠かせない。こうした思考を積み重ねることで、そのエビデンスは一過性のものではなくなり、後にも活用できる知見となる。逆に、数字やブランド名に一喜一憂しているだけでは、スポーツ現場でエビデンスに基づくことは難しいだろう。
これはスポーツ界に限った話ではない。変化のスピードが速いのは、ビジネスや教育の現場も同じことだ。新しいツールやアプローチが次々と登場し、その効果を裏付けるエビデンスが出る前に使うべきかの判断を迫られることが少なくない。
「エビデンスを待っていたら遅い」として経験や勘に頼り切るのか。
それとも、「エビデンスを待っていたら遅い」ことは認めつつも、積み上げられたエビデンスを丁寧に紐解きながら次の一手を探るのか。エビデンスと洞察の交わるところに、科学的アプローチの真髄があるように思う。
独立研究者(KDDI総合研究所リサーチフェロー) 髙山 史徳
[1] 「エビデンス」という言葉には様々な解釈がある。一般には、査読の有無を問わず、観察や実験など何らかの実証的裏付けを伴う知見を指すことが多い。一方で、特に生命科学の分野では、査読の有無に加えて、研究の種類や信頼性を階層的に整理したエビデンスピラミッド(エビデンスレベル)という考え方があり、例えば、個別の症例報告よりも、無作為化比較試験や系統的レビュー・メタ分析が、信頼性の高いエビデンスと位置づけられる。そのため、仮に査読付き論文であっても、必ずしもエビデンスのレベルが高いわけではない。その上で、本稿では、「エビデンスを待っていたら遅い」という状況において、一般に待たれている対象が何を指すのかを考察するにあたり、査読付き論文をエビデンスの代表的な形として扱う。これは、査読付き論文のみをエビデンスと見なす立場を取るものではなく、あくまで議論の出発点を明確にするためである。
[2] Hoogkamer, W., Kipp, S., Frank, J. H., Farina, E. M., Luo, G., & Kram, R. (2018). A Comparison of the Energetic Cost of Running in Marathon Racing Shoes. Sports medicine (Auckland, N.Z.), 48(4), 1009–1019. https://doi.org/10.1007/s40279-017-0811-2
[3] 2025年8月12日現在
[4] Ruiz-Alias, S. A., Pérez-Castilla, A., Soto-Hermoso, V. M., & García-Pinillos, F. (2024). Influence of the carbon fiber plate curvature of advanced footwear technology on the running energetic cost and 3000-m performance. Sports Engineering, 27(2), 21. https://doi.org/10.1007/s12283-024-00465-5
[5] Kuzmeski, J., Bertschy, M., Healey, L., Barrons, Z., & Hoogkamer, W. (2025). Data driven shoe design improves running economy beyond state-of-the-art Advanced Footwear Technology running shoes. bioRxiv, 2025-04. https://doi.org/10.1101/2025.04.13.648601