ブレインテックの衝撃・完結編(後編)

現時点で話せる語彙は50単語のみ

前編では、脳に装着された読み取り装置から言葉を抽出する仕組みを紹介した。このシステムはしかし、大きな制約条件が課せられている。

一つは語彙が50個に限定されていることだ。これらはチャン教授らの研究チームが予め想定して選び出したもので、日常会話に必要とされる基本的な名詞や代名詞、動詞、疑問詞、形容詞、副詞など50単語だ。従って男性は自分の言いたいことを、これら50個の単語だけを組み合わせることによって表現しなければならない。

二つ目の制約は、このBMIシステムを使うためには予め長時間のトレーニングが必要ということだ。被験者の男性は脳に読み取り装置をつけてから、約1年半に渡って、これら50個の単語を組み合わせた文章を脳の中で何度も念じるトレーニングを続けた。この際に脳から発せられるスパイク信号が、コンピュータの機械学習ソフトへと送信される。

最初の頃、このソフトは男性の言おうとしていることを間違えて解釈することが多かったが、その間違いを研究チームの科学者らが根気強く修正するうちに、いつしか74パーセントいう高い精度で、男性の脳が発するスパイク信号を認識できるようになった。これによって今回の臨床試験へと漕ぎ着けることができたのである。

自然な会話に近いコミュニケーションが可能に

が、そもそも何故、この男性は言語能力を失ったのか?

ニューヨークタイムズの報道によれば、男性は2003年の夏に交通事故で腹部に重傷を負って入院した。不運なことに、その際の手術の後遺症が引き起こした血栓から、一旦退院した後に脳卒中で昏睡状態に陥った。再入院して、昏睡状態から意識は戻ったものの、身体の首から下はほぼ完全に麻痺した上に、言語能力まで失ってしまったという。

脳の中で言語を司る領域は多岐に渡り、この患者の場合、(前述の)感覚運動野は無傷だったが、脳卒中で脳幹が機能不全に陥ってしまったために喋れなくなってしまったのだ。

その後、長年に渡って、帽子の鍔(つば)に取り付けるレーザーポインター型の特殊装置を使って、周囲とのコミュニケーションを図ってきた。

具体的には、介護者が手に持ったアルファベット文字・数字・記号等の一覧表に対し、この男性が頭(に被った帽子)を動かすことによって、レーザー光で特定の文字や数字をピンポイントで選び出して言いたい事を表現する。

ただ、この方式だと1分間に5つの単語(1単語を平均5文字と換算して25文字)を画面に表示するのが精一杯だった。また、それは流ちょうに「話す」というよりも、むしろ1文字1文字・・・と辛抱強く文字を連ねていくような方法だった。

これに対しチャン教授らのBMIシステムに切り替えてからは、毎分15~18単語(75~90文字)に達する高速表示が可能になった。しかも男性の頭の中では、以前のように1文字づつ入力していくというより、自然に話しているイメージへと改良された。これによって、かなり普通に近い会話ができるようになったという。

ただし74パーセントの認識精度とは言え、今でも言いたい言葉をシステムが誤って表示する可能性は残されているわけで、その場合には、改めて脳で念じて訂正する必要がある。

BMIシステムを無線化したい

チャン教授らの研究チームの今後の課題は、現在、患者の頭部から通信ケーブルでコンピュータに接続されているBMIシステムをBluetooth技術等で無線化することだ。これによって患者の頭部に突き出ている連結装置などをなくして、装置全体を頭蓋骨の内側へと隠してしまうことができる。

すると表からは全く目立たなくなると共に、患者の行動の自由度や生活の質が飛躍的に高まることが期待される(図4)。ただ、こうした無線方式のBMIシステムは冒頭で紹介したマスク氏のニューラリンク社が開発中だが、未だマカクザル等を使った動物実験の段階だ。

図4 BMIシステムを無線化すれば、患者の生活の質が向上する
出典:https://www.youtube.com/watch?v=_GMcf1fXdW8&t=34s

また機械学習の認識精度を高めると共に、使える語彙の数を増やすことも課題だ。さらに今回の男性のような特定の患者に限らず、あらゆる患者が使用できるような汎用性を実現する事も求められている。これらの課題をクリアして実用化されるまでには、まだ相当の時間がかかると見られている。

KDDI総合研究所リサーチフェロー 小林 雅一