研究員がひも解く未来

研究員コラム

世界的な主要企業の量子コンピュータに対する取り組み 後編:マイクロソフトとアマゾン(続き)

 マイクロソフトは2006年に設立した量子研究所「ステーションQ」で、「マヨラナ粒子」と呼ばれる謎の物質に基づく「トポロジカル量子コンピュータ」の研究を進めてきた(連載第7回参照)。

 しかし、このマヨラナ粒子は理論的に予言されているだけで、その存在は未だ確認されていない。この存在を実験で証明する必要があったが、そのためにマイクロソフトが白羽の矢を立てたのが、デルフト工科大学のレオ・カウウェンホーフェン博士だった。

 マイクロソフトは博士らの研究を資金的に援助し、その成果をステーションQでの量子コンピュータ開発に活かそうとした。  

 2012年、カウウェンホーフェン博士らの研究チームはナノ・ワイヤー中でマヨラナ粒子の存在を強く示唆すると見られる実験結果を米国の科学誌サイエンスに発表した。この論文は関係する専門家らの間で大変な反響を呼び、「未来のノーベル賞候補」との呼び声も高かった。

 2016年、マイクロソフトはカウウェンホーフェン博士らを研究員として雇用すると共に、トポロジカル量子コンピュータ開発への投資を大幅に増額した。

 ここからカウウェンホーフェン博士らは研究をさらに加速し、2018年にはついに「マヨラナ粒子を実際に観測した」とする実験結果を英ネイチャー誌に発表した。

 その論文によれば、極低温のナノ・ワイヤーに一定の電圧をかけてからゼロに降下させると、電気伝導度が突如ピークに達することが理論的に予想される。この現象は専門的に「ゼロバイアス・ピーク」と呼ばれ、もしも実験でそれが確認されればマヨラナ粒子の動かぬ証拠となる。そしてカウウェンホーフェン博士らの研究チームは、実際に実験でその現象を観測したという(写真1)。

 これで一気に勢いを得たマイクロソフトの開発責任者は「今後5年以内に(IBMやグーグルを追い越して)商業用の量子コンピュータを提供できるかもしれない」と語った。

写真1 マヨラナ粒子が観測されたとするナノ・ワイヤー
(写真中央の細い緑色の部分)
出典:https://www.nature.com/articles/d41586-021-00612-z

実機開発の鍵となる重要論文が撤回に追い込まれる

 しかし、ここから事態は暗転する。

 2018年に発表されたカウウェンホーフェン博士らの論文を読んだピッツバーグ大学の物理学者セルゲイ・フロロフ博士が、「この論文にはデータ処理に不自然な点が見受けられる」とするクレームをつけた。科学的な詳細は割愛するが、要するにゼロバイアス・ピークを示すとされるグラフにおいて、実験では測定されながらも理論的な予想に反する一部データが意図的に省かれているのではないか、というのだ。

 フロロフ博士はカウウェンホーフェン博士らの研究チームから実験の生データを取り寄せ、その疑念を検証したところ、本当に都合の悪いデータが省略されていることを確認した。もしもこれらのデータをプロットした上で改めてグラフを作成すれば、マヨラナ粒子の証拠となるゼロバイアス・ピークは出現しないことになる。

 フロロフ博士は、この検証結果をネイチャー誌に発表。同誌編集部は2020年4月、カウウェンホーフェン博士らの論文の信憑性に対する「懸念」を表明する記事を同誌に掲載した。

 これを受けて2021年3月、カウウェンホーフェン博士らの研究チームは2018年の論文からは省略されていたデータを含む論文を新たに発表。この中でマヨラナ粒子は実験では観測されなかった事を認めた上で、2018年に発表した論文を撤回した。

 また、カウウェンホーフェン博士が所属するデルフト工科大学は2020年5月、研究倫理委員会による調査を開始。翌2021年3月には調査報告書を公表し、その中で「(2018年の論文には)意図的な捏造を裏付ける証拠は存在しなかったが、(カウヘンホーフェン博士ら)論文の著者が選んだ研究テーマは極めて自己欺瞞に陥り易いものであり、著者らはそれに対する警戒を怠った」とする見解を述べた。

 未来のノーベル賞候補とも言われた研究者を雇用し、その力を借りることで大きく前進したかに見えたマイクロソフトによる量子コンピュータの開発プロジェクトは、その論文が撤回に追い込まれたことで大きな打撃を受けたと見られている。

 しかしマイクロソフトはトポロジカル量子コンピューティングの研究開発を今後も続行するとしている。またカウウェンホーフェン博士らの論文が撤回されてからも、日本を含む世界各国でマヨラナ粒子の存在を立証しようとする論文が次々と発表されている。それ程までに、この方式は本格的な量子計算機を実現する上で有望と見られているようだ。

アマゾンはカリフォルニア工科大学と共同開発

 早くも2000年代から量子コンピュータの研究開発を進めてきたマイクロソフトとは対照的に、GAFAの一角を成す巨大IT企業アマゾン・コム(以下、アマゾン)がこの分野で実機開発に本気で取り組み始めたのは、つい最近だ。

 2021年11月、アマゾンはカリフォルニア工科大学のキャンパス内に「AWS Center for Quantum Computing」と呼ばれる研究所を開設し、ここで量子コンピュータの自主開発に乗り出した。

 約2年の歳月をかけて建設された床面積1950平方メートルの同施設には、極低温冷却システムや屋内に張り巡らされた配線など、量子コンピュータの開発に必要な設備が整えられている。アマゾンはここで、精鋭の誉れ高いカリフォルニア工科大学の物理学者らと共同で、汎用「誤り耐性」量子コンピュータの開発を進めていく。IBMやグーグルと同じく「超電導量子ビット」に基づくマシンを開発していく計画だ。

 これを通じてアマゾンはカリフォルニア工科大学の研究を資金的に援助する見返りに、そこで開発された量子コンピュータ技術の知的所有権(IP)を取得する取り決めになっている。しかし一部のIPは同大と共有することもあるという。

 カリフォルニア工科大学教授で量子アルゴリズム開発のリーダーでもあるフェルナンド・ブランダオ博士は「我が校は量子コンピュータを作り出すために地球上でベストな場所の一つだ」と誇らしげに語る一方で、「しかし、それは大学の研究者だけでやれることではない。(アマゾンのような)産業界のカネが必要だ」と率直に認める。

 その両方が揃った今、本格的な量子コンピュータが実現する可能性はかつてない程に高まってきた、と言えるだろう。

KDDI総合研究所リサーチフェロー 小林 雅一