研究員がひも解く未来

研究員コラム

女子マラソン界から考えるオーバー30アスリートのポテンシャル

昨年10月、パリ五輪の日本代表選手の座をかけたマラソングランドチャンピオンシップが開催された。女子の部では、18名のランナーが完走し、その平均年齢は28歳だった。また興味深いことに、入賞した上位8名のランナーは、そろって20代で30歳を超えた者はいなかった。

日本の女子マラソン界において、30歳を超えたランナーの活躍が少ないことは今回に限ったことではない。事実、日本陸連が女子マラソン記録の公認を始めた1980年からの日本記録[1]の変遷をみても、30歳を超えて更新したランナーは誰もいない(表1)。

表1 女子マラソンの日本記録の変遷

その一方、世界の女子マラソン界を眺めていると、30代、場合によっては40代でハイパフォーマンスを発揮するランナーがいることに気がつく。そこで今回は、ナショナルレコードを破ったトップランナーたちのアネクドート(逸話)と研究のエビデンスをもとに、女子マラソンを題材に、キャリアについてちょっと考えていきたい。

ナミビア記録を40歳でマーク

まず1人目に取り上げるのは、Helalia Johannes選手。

彼女は、ナミビアの代表選手として五輪と世界選手権に4大会ずつ出場している。また、単に出場を続けるのみならず、徐々に競技力を高め、39歳で出場した世界選手権では銅メダルに輝き、40歳で出場したバレンシアマラソンでは2時間19分52秒の自己ベストを記録している。

そんな彼女は、2015年に息子を出産したこともあり、競技者としての本格的な活動を1年間休止した過去を持つ[2]。国際競技連盟のホームページから競技成績を調べてみても、2004年から2023年のうち、2015年だけ記録が1つも存在しない。

アメリカ記録を37歳でマーク

2人目に取り上げるのは、Keira D’Amato選手。

彼女は、37歳のときに2時間19分12秒の自己ベストを記録している[3]。ちなみに、この記録は現在の日本記録と同じタイムである。また、同年(2022年)に開催された世界選手権では、アメリカの代表として出場し、レース終盤で松田瑞生選手との競り合いを制し、8位に入賞している。

そんな彼女は、大学生時代、長距離選手として活躍していたものの、卒業後に怪我が重なり一度競技の世界から離れている。また、競技活動を本格的に再開するまでの期間に2人の子供を出産していた上、競技再開後は、子育てと不動産業を両立している。

オーストラリア記録を45歳でマーク

次に取り上げるのは、45歳で2時間21分34秒の自己ベストを記録したSinead Diver選手。2020年に一山麻緒選手が日本人の国内最高記録を名古屋ウィメンズマラソンで出した際に30kmまでペースメイクしたランナーでもある。

アイルランドで育った彼女は、学生時代には本格的にランニングをした経験がなく、ランナーとしてのキャリアは33歳から始まった。その後、38歳のときに開催された世界選手権で主要国際大会にデビューして以来、東京五輪に10位に入るなど、世界の舞台で活躍を続けている。

そんな彼女も2人の子供を育てながら競技に取り組んでいるが、2人目の息子の出産前後に競技者としての本格的な活動を1年間休止している。また、今は、パリ五輪に照準を合わせトレーニング時間がより確保できるように仕事を調整しているものの、活躍が世間に知られるようになった当初はフルタイムワーカーとしてITエンジニアにも従事していた。

妊娠出産後にパフォーマンスは向上できる

このように、妊娠出産を経たマラソンランナーの中には、30代や40代でハイパフォーマンスを発揮する者がいる。ちなみに、日本の女子マラソン界で妊娠出産後にハイパフォーマンスを発揮した選手としては、42歳で臨んだ2018年の大阪国際女子マラソンに6位入賞した小崎まり氏(当時は選手)や、世界陸上入賞やロンドンマラソン3位などの実績を持ち、34歳で迎えた現役最後のレース、2014年の大阪国際女子マラソンで優勝した赤羽有紀子氏[4](当時は選手)が有名である。

近年ではアネクドートの世界を超えて、妊娠出産後のハイパフォーマンスについてエビデンスが示されている。カナダのカールトン大学で社会正義と健康の公平性の研究に取り組むFrancine Darroch博士らが昨年発表した論文[5]では、陸上競技1500m以上の走種目で妊娠経験を持つ女性アスリートたちを対象としてアンケート調査を行っている。分析対象者となった42名のうち、半数以上が世界選手権やオリンピックへの出場経験を有するトップアスリートを対象とした興味深い研究である。

調査をして分かったのは、妊娠前と同等以上のパフォーマンスに戻ることを意図していたランナーは、出産から1-3年後にはパフォーマンスが戻り、半数以上の人ではむしろ妊娠前よりパフォーマンスが向上していたという事実だ。この結果の一因として、Francine Darroch博士らは、妊娠出産による強制的な休憩(休止)がエリートアスリートのキャリアにとって、精神的にも肉体的にもメリットをもたらす可能性を指摘している。

チャンピオンスポーツの世界に限らず妊娠出産後のキャリアを充実させるには、家族や職場の理解や協力が大切に違いないが、妊娠出産がエリートアスリートのキャリアに必ずしもマイナスに働くわけではなく、むしろポジティブな要素も期待できる。

流れに抗わずに身を委ねる

これは私見になるが、強制的な休憩は、何も妊娠出産である必要はなく、キャリアを一時的に休止さえすれば良いと考えている。例えば、一時的に競技とは直接関係しない仕事や学業に専念する、アルバイトをしながら難関試験などにチャレンジするといった感じだ。

ところで、筆者は怪我などで思うように練習ができないアスリートから相談や連絡を受けることがある。この場合、アスリートは「怪我が治るコンディショニングのアプローチ」や、「怪我の悪化を防ぎながら体力を維持向上するトレーニングの具体策」に関するアドバイスが欲しいのだと推察している。しかし、そのような手段を見出すのはときに難しく、無理に頑張ることでかえって肉体的、精神的な消耗を招き、その後のパフォーマンス発揮にマイナスに繋がることもあると筆者は思っているので、「一旦辞めたら」といった、一聞するとマイナスにもみえる返事をするときがある。これは筆者なりに親身になったつもりであり、ここまで読んだ人であれば、意図が少なからず理解できるだろう。

スポーツ界はいつでも諦めない心を問うものが多いが、ときには流れに抗わず、身を委ねても良いのではないか。

新しい価値観の共創

いずれにしても、チャンピオンスポーツにおける記録の絶対的価値は20代も30代も40代も一緒である。どういったキャリアを歩むのかは、その人なりの正解があるに違いないし、競技者としてのキャリアが順調に進んでいるときに自ら休止する必要性は必ずしもないだろう。それを前提としても、多様性の時代と呼ばれる21世紀において、今までとは違ったタイプの日本記録が出ても良いのではないか。

歴史が動く瞬間は、いつだって非常識で、古典的な取り組みや予測が打ち破れたときだ。アスリートが単なる数字の更新だけでなく、歴史的転換を引き起こしたとき、スポーツは計り知れない価値を日本社会にもたらしてくれるのかもしれない。

KDDI総合研究所 招聘研究員 髙山史徳

■参考資料
高橋進 (1983) 日本の女子マラソン史.『輝け!女子マラソン』,第1刷,株式会社碩文社、189-258.

[1] マラソンの記録更新に関する用語や扱いは複雑である。2004年に国際陸上競技連盟がマラソンの記録を正式に承認するまでは、世界最高記録などと扱われ、100メートル競走などの世界記録(世界新記録)とは異なる扱いをされていた。また、2011年8月の総会を経て、同連盟は2011年11月以降のマラソンにおいて、男女混合レースで女子選手が世界記録よりも速いタイムを出した場合には世界記録とは区別し世界最高記録として扱うことを決めた。また、現在では、男女混合レースと女子単独レースを別々の世界記録として扱っている。日本においては、日本陸上競技連盟が1980年に女子マラソンの道路日本記録の公認を開始したのが始まりである。表1にはそれ以降の記録更新の変遷を示し、本コラムでは「最高」「新」「単独」「男女混合」といった違いを考慮していない。なお、1980年よりも前の記録としては79年2月の小幡キヨ子氏(別府大分毎日マラソン:2時間48分52秒)、同年11月の村本みのる氏(東京国際女子マラソン:2時間48分52秒)などがある。

[2] 出典:https://namibian.com.na/helalia-johannes-wins-the-dublin-city-marathon/ (2024年1月15日アクセス)

[3] 現在のアメリカ記録は、2022年10月にEmily Sisson選手(当時30歳)がマークした2時間18分29秒。

[4] 大会当日の赤羽有紀子氏は2位で完走したが、1位の選手の記録がドーピング違反により後日抹消されたため、順位が繰り上がっている。

[5] Darroch, F., Schneeberg, A., Brodie, R., Ferraro, Z. M., Wykes, D., Hira, S., Giles, A. R., Adamo, K. B., & Stellingwerff, T. (2023). Effect of Pregnancy in 42 Elite to World-Class Runners on Training and Performance Outcomes. Medicine and science in sports and exercise, 55(1), 93–100.