世界の社会・経済に劇的な変革をもたらすと見られる量子コンピュータは、国家間の力関係にも多大な影響を与えそうだ。世界の主要国はこれまで、自国の経済や安全保障を左右する量子コンピュータの研究開発に多額の予算を投じてきた。
技術分析・未来予測等のコンサルティング会社アスタミューゼの調べでは、首位の米国は2018年までの10年間で推定10億6000万ドル(1100億円以上)、2位の英国は同じ期間に同8億3000万ドル(900億円以上)を量子コンピュータの研究開発に注ぎ込んだ(表1)。同じ時期に世界全体の研究費総額は約80億ドルに達したという。
量子関連予算を年々上積みする米国
ここ数年で、主要国の量子関連予算は増額の方向にある。
米国は2018年に「量子情報科学(Qauntum Information Science:QIS)」の分野における国家戦略を策定し、2023年までの5年間で総額13億ドル(約1500億円)の研究開発費を投じる「国家量子イニシアティブ法」を施行した。量子情報科学に含まれるのは、量子コンピュータ、量子暗号、量子通信、量子センサーなどの技術だ。
2021年に発足したバイデン政権は技術革新を促す科学振興費に、4年間で3000億ドル(30兆円以上)を投じる計画だ。ここには「クリーン・エネルギー」「5G」「AI(人工知能)」等と並んで「量子情報科学」が含まれている。
量子情報科学の予算は2021財政年度には推定7億9300万ドル、2022財政年度には(議会への要求額で)8億7700万ドルと年々増加している(図1)。これらを見る限り、2018年に定めた5年分の予算総額を、実際に投入された金額の方が上回っているようだ。
特に、大規模な量子通信ネットワーク、いわゆる「量子インターネット」の研究開発は民主・共和両党の支持を得ている。
また国防・諜報など安全保障面では、サイバー・セキュリティを強化するために量子コンピュータでも破ることのできない次世代暗号や量子暗号の研究開発に注力する。
一方、米商務省は2021年11月、中国にある量子関連企業など8つの技術系組織(technology entities)を、軍事開発や暗号解読など安全保障上の懸念から、いわゆるエンティティ・リストと呼ばれる禁輸リストに加えた。米国企業がこれらの組織に量子コンピュータ関連の技術を輸出することを禁止する。米中両国間の技術覇権争いに、量子情報技術が関わってきたことを示唆している。
光方式に注力する中国の狙い
米国と対抗するように、中国も量子情報科学を「国家重点計画」に加え、巨額の研究費を注ぎ込む構えだ。中国の量子関連予算の正確な額は不明だが、数年前に約100ドル(1兆1000億円以上)を投じて国立量子情報科学研究所の建設に着手した。完成すれば、世界最大の量子技術研究所となる見通しだ。
安徽省・合肥にある37ヘクタールの敷地内に建設される同研究所は、主にステルス潜水艦に搭載される量子ナビゲーション・システムや量子暗号など、軍事・安全保障に関する量子技術に注力すると見られている。
特に量子コンピュータでは「超電導」や「イオン・トラップ」など様々な方式がある中で、中国が得意とするのは光方式、つまり光の素粒子である「光子」を活用した量子計算機だ。光方式の量子コンピュータは、光ファイバーなど通信ネットワークとの相性が良い。
中国科学技術大学の潘建偉教授らの研究チームは2016年に、世界初の量子通信衛星「墨子号」を打ち上げた。2021年1月には、この衛星と地上をつなぐ4600キロメートルの通信網を築き、この上でハッキングや盗聴を不可能にする量子暗号通信を成功させている。中国が光方式に注力するのは、量子通信ネットワークや量子暗号など安全保障に直結する技術であるからだ。
潘教授らの研究チームは、2020年に光方式の量子コンピュータ「九龍」も開発している。この超高速マシン(実際には一種の実験装置)は世界最速のスパコンでも6億年はかかる「ガウシアン・ボソン・サンプリング」という問題を僅か200秒で解くことに成功したという。研究チームは、これをもって「量子超越性を達成した」と主張するなど世界的な注目を集めた。
基礎研究の商用化に腐心する英国と豪州
英国は2018年までの10年間で、米国に次ぐ多額の予算を量子コンピュータの研究開発に投じてきた。ポール・ディラックやアラン・チューリングなど、量子力学やコンピュータ科学で伝説的な研究者の母国でもあるせいか、早くから国内の主要大学に研究予算を重点的に配分し、量子コンピュータの基礎研究に取り組んできた。
しかし英国は過去に大学を中心とする様々な基礎研究では先駆的な業績を上げながらも、その実用化(商用化)では米国等に後れを取ってきたとされる。
今回の量子コンピュータでは、その轍を踏むまいと、英国政府は米中と競うように実用機の開発を目指している。
2013年には「国家量子技術プログラム」を立ち上げ、5年間で2億7000万ポンド(400億円以上)の研究開発費を投入することを決めた。その一翼を担うオックスフォード大学を量子技術開発のハブと位置づけ、ここを中心に世界初となる「真にスケーラブル(拡張可能)な量子コンピュータ」を実現するとの公約を掲げている。
2021年11月、ボリス・ジョンソン首相は「2040年までに本格的な汎用量子コンピュータを開発し、世界市場で50パーセントのシェアを確保する」と述べるなど、この分野にかける英国の野望を露わにしている。
英連邦王国の一員であるオーストラリアもまた、かなり以前から量子技術の基礎研究に注力してきた。
国の研究開発予算を大学等に配分するオーストラリア研究評議会は、2000年にクイーンズランド大学に「量子コンピュータ技術特別研究センター」を設置。ここを中心に、同国の名門校が共同で量子コンピュータの基礎研究を進めてきた。当時はまだ量子コンピュータへの認知度や関心が低い中で、こうしたオーストラリアの取り組みは世界に先駆けたものであった。
ただ、2010年代に入って量子コンピュータへの世界的関心が徐々に高まり、近年はIBMやグーグル、マイクロソフトなど米国の巨大IT企業が量子コンピュータの実用化を推し進める中で、オーストラリアの影は薄くなってきている。
特に最近は母国の大学で学び、量子技術を研究してきたオーストラリアの科学者らが、北米で量子コンピュータのスタートアップ企業を立ち上げるなど頭脳流出が目立っている。
2021年に投資ファンド等から5億ドルの資金を調達した米国の「PsiQuantum」(写真1)、同じく1億ドルを調達したカナダの「Xanadu」などは、いずれも創業者がオーストラリア出身の科学者である。
このためオーストラリアの政府関係者の間では、頭脳流出を食い止めると同時に「基礎研究の成果を(国内での)商用化に結び付ける何らかの取り組みが必要ではないか」という危機意識が高まっているとされる。
量子関連予算を増額して国産技術の育成を図る日本
日本政府は2020年1月に「量子技術イノベーション戦略(最終報告)」を策定し、量子コンピュータなど量子情報技術に国をあげて取り組む方針を固めた。
2021年2月には、この方針に基づき、理化学研究所を中核組織とする8つの「量子技術イノベーション拠点」を設けた。これら8拠点に各々個別の分野を担当させ、大学と企業の間で研究開発の連携体制を育む。
たとえば8拠点の1つである東京大学が事務局となる量子イニシアティブ協議会は「量子コンピュータの利活用」、同じく拠点の産業技術総合研究所は「量子デバイス開発」、大阪大学は「量子ソフトウエア研究」を担当する。
こうした動きに合わせ、日本政府は量子関連技術に投じる予算を大幅に増額している。2019年度は約160億円だったが、2021年度にはその2倍以上となる約360億円を量子コンピュータなど量子関連技術の予算に計上した。
2022年1月に公表した報告書「量子技術イノベーション戦略の見直しの方向性 中間取りまとめ概要(案) 」では、東芝やNECなど日本企業が得意とする量子暗号など量子セキュリティ技術について「部品・コンポーネントのサプライチェーンの確保」を明記。国の安全保障に係る量子情報技術を内製化する方向性を示した。
また量子インターネットに関する国家プロジェクトを立ち上げ、その技術(開発)ロードマップを作成する旨も明記。この分野でも、先行する米中両国と競合して国産技術を育成する方向性を示した。
同報告書はまた、量子コンピュータが今後の社会で果たす役割にも言及している。「世界各国でカーボンニュートラル社会に向けた取組が加速。またSDGsなど健康・医療、食糧、貧困など解決すべき問題は多い。優れた計算能力を誇る量子コンピュータは、生産性向上/脱炭素化 やSDGsなど複雑な社会課題の解決等に貢献」すると見ている。
1946年の「エニアック」に端を発する従来のコンピュータは、都市に聳える巨大なビルや全国を縦横無尽に伸びる高速道路、あるいは大量のプラスチック製品に象徴される20世紀の物質文明を発達させる上で大きな役割を果たした。
今、世界全体でそれに対する反省の機運が高まる中、21世紀を担う量子コンピュータには単なる経済成長とは異なる、より複雑で微妙な役割が期待されているようだ。
KDDI総合研究所リサーチフェロー 小林 雅一