日米欧や中国など主要国・地域が競うように開発を進める次世代の超高速計算機「量子コンピュータ」。最終目標である「誤り耐性」量子コンピュータには、少なくとも100万個以上の量子ビットが必要とされる。
それが実現されるのは今から10〜20年先と見られるが、「NISQ(Noisy intermediate-scale quantum:ノイズあり中規模量子デバイス)」と呼ばれる1000量子ビット級の量子コンピュータは2023年にも登場する見通しだ。
異次元の計算速度を誇る量子コンピュータは「組み合わせ最適化」問題をはじめ、従来のスパコンでさえ歯が立たなかった数々の難問を鮮やかに解決するとの期待が高まっている。
そうした中、主に関連技術者の育成用に開発され、数十量子ビットを備えるエントリー・レベルの量子コンピュータが産業各界で試験的に使われ始めている。前回の「自動車」と「金融」に続いて、今回は「化学」など3つの業界における量子コンピューティングの活用状況を見ていこう。
(3)化学
「化学」は量子コンピューティングに最適な分野の一つと見られている。新たな化学物質を合成するには、その化学反応に関与する多数の電子の量子状態を精密にシミュレートする必要がある。これを最も効率的に行う事が出来るのは、量子コンピュータ上で稼働する量子アルゴリズムだ。
2020年9月、グーグルはその前年に開発され量子超越性の実験に用いられた量子プロセッサ「シカモア」を使って、多電子系の状態を近似的に記述する「ハートリーフォック方程式」のシミュレーションを行った。
こうした基礎研究の成果は、いずれ太陽光・風力発電などに必要となる新たなバッテリーに適した素材の探索や、新薬の開発に応用できるという。
量子コンピュータはまた、肥料生産の効率化も促すと見られている。
現在、世界全体で使用されている肥料はどれもアンモニアを原料としている。しかしアンモニアの合成プロセスは長年に渡り、ほとんど進歩していない。基本的には20世紀初頭にドイツで開発された「ハーバー・ボッシュ法」に頼っている。
この方法では、様々な触媒を組み合わせて水素と窒素を反応させることでアンモニアを合成する。しかし、触媒の組み合わせ候補が余りにも多すぎて、現在のスパコンを使っても、最適な組み合わせを見つけるには数百年かかると見られている。
ここに量子コンピュータを投入すれば、最適な組み合わせを現実的な時間内に探し出し、アンモニアの合成にかかる時間やエネルギー、費用等を最小限に抑えることができると期待されている。
(4)製薬
現在、量子コンピュータの実用化を強く待ち望んでいるのは製薬業界と言われる。
製薬会社はこれまで、スパコンを使った「分子動力学計算」によって新たに開発した化学物質の薬効をシミュレートしてきた。これは「ニュートンの運動方程式」など古典物理の法則に従って、分子や原子などの動きを逐次的に記述する方法である。
本来、こうしたミクロ世界に関する計算には、古典物理学ではなく量子力学を適用すべきだ。しかし、そこでは「量子重ね合わせ」現象によって、原子や電子のような量子の数が増えると指数関数的(爆発的)に計算量や複雑さが増してしまう。このため次善の策として、古典力学的な計算で近似解を求めてきたが、より精密に薬効を予測するには量子力学に従ってシミュレートすることが望ましい。
こうした量子系のシミュレーションには量子コンピュータが最も適している。何故なら、量子ビット自体が電子やイオンなど量子から作られているため、シミュレーションの対象となる量子が増加しても、同じく量子重ね合わせによってナチュラルに対応できるからだ。つまり古典コンピュータのような計算量の爆発を回避できるのだ。
このような時代を間近に控え、製薬業界ではスタートアップから大手企業まで量子コンピューティングの研究開発に乗り出している。
スイスの製薬・ヘルスケア大手ロシュは2021年、英国の量子ソフト開発企業「ケンブリッジ・クォンタム・コンピューティング」と提携して、創薬に対応するNISQ時代の量子アルゴリズムを開発すると発表した。この提携によって、特にロッシュのアルツハイマー病の研究を強化するという。
米国の合成生物学のスタートアップ「メンテンAI」は、カナダのD-Waveと共同で新薬につながる新たなタンパク質を設計する量子アルゴリズムの開発に挑む。
米国の製薬大手メルクは、量子計算ソフトを開発する米サパタ・コンピューティングに投資している。また米バイオジェンは量子ソフト開発の1Qビット等と提携して、創薬シミュレーションの量子アルゴリズムを開発する。
(5)物流
「物流」は量子コンピュータの活用が最も期待される業界の一つだ。
この分野における本質的な課題として「巡回セールスマン問題」がある。セールスマンがこれから訪れる複数の都市の経路を決める際に、最も移動距離が短く、時間や交通費を最小限に抑えることのできるルートを選ばねばならない。
訪れる都市が少ない間は、この問題は容易に解ける。しかし都市の数が数十、数百と増加するに連れて問題は複雑さを増し、ある段階からトップクラスのスパコンを使っても何万年もかかるような計算になってしまう。つまりスパコンでも手に負えないほど膨大な計算量となり、事実上解けない問題となってしまう。
この種の問題は一般に「組み合わせ最適化問題」とも呼ばれ、量子コンピュータが最も力を発揮できる分野の一つとなっている。
ただし巡回セールスマン問題、より一般的に組み合わせ最適化問題は計算複雑性の理論上は「NP完全」と呼ばれる種類に属し、量子コンピュータがこの種の問題を解く事ができると証明する研究成果はこれまで報告されていない。あくまでも解ける可能性があるに過ぎない。
それでも世界的な物流業者は、複雑な国際配送ルートやサプライチェーンを合理化するために量子コンピューティングに大きな期待を寄せている。こうした課題は基本的に「巡回セールスマン問題」に帰着するからである。
独DHLはハネウェル製の10量子ビットの量子コンピュータを試験的に利用して、国際配達ルートを最適化すると同時に、顧客からの再配達の注文や注文のキャンセル等に柔軟に対応できるシステムを開発している。
エネルギー大手の米エクソンモービルは、商船の海上輸送ルートを最適化するために量子コンピュータを活用しようとしている。
同社は5万隻以上の商船を保有しているが、1隻で最大20万個ものコンテナを輸送するケースもあり、それによって運ばれる商品の価値は総額14兆ドル(1500兆円以上)にも上る。これら多数の商船が辿る複雑な海上輸送ルートを最適化するために、エクソンモービルはIBMと共同で、その解を見つける量子アルゴリズムの開発を進めている。
独フォルクスワーゲンはカナダの量子コンピュータ・メーカー、D-Waveと共同で、バスの停留所間を最適な経路で結ぶ量子アルゴリズムを開発した。各々のバスには、リアルタイムの交通状況に応じて最適なルートが割り当てられる。道路上で渋滞が始まりつつある箇所を早めに検出して避けることができる。
2019年にはポルトガルの首都リスボンで、この量子アルゴリズムの実証実験が実施された(図1)。フォルクスワーゲンはいずれ、この技術を商用化する方針であるという。
(続く)
KDDI総合研究所リサーチフェロー 小林 雅一