グーグルやIBM、アマゾンなど世界的な巨大IT企業、あるいは日米欧中をはじめ主要国・地域の大学や産業界が競うように開発を進める夢の超高速計算機「量子コンピュータ」。近い将来、実用機が登場した暁には、私達の生きる社会や経済、ひいては世界をどう変えるだろうか?
このような問題提起はやや大げさに感じられるかもしれない。しかし現在のコンピュータについて同じ質問を投げかけてみると、決して大げさではないことが分かる。
1946年に米国で開発された世界最初のデジタル計算機「エニアック」を端緒に、コンピュータは現代文明の発達を陰で支えてきた。
超高層ビルや高速鉄道、大型ジェット旅客機など現代社会を象徴する構造物や乗り物のいずれもコンピュータ無しでは設計できない。仮に、これらが無かったとすれば、都市の景観あるいは私達の仕事やライフ・スタイルは今とは全く違ったものになっていただろう。コンピュータはまさに私達の生きる社会や経済を舞台裏から形作ってきたと言える。
2019年以降、グーグルや中国科学技術大学などが実施した、いわゆる「量子超越性」の実験によれば、スパコンなど既存のコンピュータで計算すれば何万~何億年もかかるような難問を量子コンピュータは僅か数分で解くことができるという。
これらの主張には多分に誇張が含まれている事は推察に難くないが、そもそも量子コンピュータに潜む巨大なポテンシャルがなかったとすれば、そのようなブラフさえ成立しなかっただろう。裏を返せば、決して根も葉もない話ではないということだ。
既存のコンピュータを遥かに凌ぐ、その潜在能力の高さを考えれば、量子コンピュータが近未来の世界をこれまでとは違う姿へと作り変えていく可能性は極めて高いと見るべきだろう。
それが何時頃から始まるかは諸説ある。
グーグルやIBMをはじめ産業界が究極の目標とするのは、計算に伴う誤りを自ら訂正して仕事を進められる「誤り耐性」量子コンピュータの開発だ。本格的な実用化が期待される誤り耐性量子コンピュータには、少なくとも100万個の量子ビットが必要とされる。それが登場するのは、早くても今後10~20年先になるとの見方が優勢である。
しかし、いわゆる「NISQ(Noisy intermediate-scale quantum:ノイズあり中規模量子デバイス)」と呼ばれる発展途上段階の量子コンピュータであれば、間もなく市場に登場しそうだ。たとえばIBMが2023年にリリースする予定の「コンドル」は1121量子ビットのプロセッサだが、この水準の技術がNISQに該当するだろう。
このように1000量子ビットを若干超えた程度のNISQでも、「化学」や「機械学習」など一部の領域では、何らかの形でビジネス上の価値を生み出せるかもしれないという。つまりIBMは、2023年が量子コンピュータが実用化へと向かう変曲点になると見ている。
これに備え、IBMは数年前から「IBMQ」と呼ばれるサービスを提供している(連載第7回参照)。これは同社が既に開発した数十量子ビット級の量子コンピュータをクラウド形式で提供し、産業各界の企業を中心に多くのユーザーに慣れ親しんでもらうためのサービスだ。数十量子ビット級のマシンは実ビジネスでの活用は難しいが、将来、本格的な量子コンピュータが登場した際に、それを使いこなすためのスキル等を養うことができる。
これと同様のクラウド量子サービスは、グーグルやマイクロソフト、アマゾンなども提供している。そこでは、これらの巨大IT企業が自主開発したマシンに加え、米IonQやリゲッティ・コンピューティングなどスタートアップ企業が商品化した量子コンピュータも使えるようになっている。いずれも数十量子ビット級のエントリー・マシンだ。
これらのクラウド量子サービスは、いずれも世界全体で数万~数十万人のユーザーを抱えているとされる。まずは、これらサービスを通じて提供される初期段階の量子コンピュータが産業各界でどのように使われているかを見ていこう。その延長線上に将来の姿があると考えるのは短絡的かもしれないが、今できるのはそれだけであるし、量子コンピュータが形作る未来を考える上で多少の参考にはなるだろう。
(1)自動車業界
自動車業界は初期段階の量子コンピュータを最も積極的に導入している業界の一つだ。この業界は今、電動化や自動運転化など「100年に一度」と言われる大変革を迎えようとしている。次なるステージでリーダーシップをとるために、量子コンピュータは強力な武器となることが期待されている。
これと直接的な関係はないが、当面は「交通渋滞の緩和」が量子コンピューティングの試金石になると見られている。日本では量子ソフトウエアを開発するスタートアップJiJと豊田通商が共同でマイクロソフトのクラウド量子サービス「Azure Quantum」を使って、この課題解決に取り組んでいる。
具体的には市街地の信号機のタイミングを最適化して、車両のスムーズな流れを促すなどの量子アルゴリズムを開発しようとしている。このような取り組みによって、クルマで移動中の待ち時間を最大2割短縮できる可能性があるという。
同じく日本のトヨタ自動車は物流の合理化に量子コンピュータを活用しようとしている。サイズや重量の異なる部品が何種類もある場合、それを運搬するトラックの台数をなるべく少なく抑える最適解を見つけ出すために何万通りもの計算をしなければならない。この種の課題に、量子並列性を生かした量子アルゴリズムが極めて効果的と見られている。
ドイツでは大手のBMWやフォルクスワーゲンが部品サプライヤーのボッシュ等と共に「量子技術応用コンソーシアム」を設立。自動車業界における量子コンピューティングのニーズを掘り起こそうとしている。BMWはまた、米ハネウェル製の10量子ビットの量子コンピュータ(写真1)を使って、各種部品等のサプライチェーンを最適化する量子アルゴリズムの研究を進めている。
一方、ダイムラー(メルセデス・ベンツ)はIBMと共同で電気自動車に搭載される「リチウム硫黄電池」と呼ばれる新型バッテリーの研究を進めている。(前述の)IBMQを使って、水素化リチウムや硫化水素等からなるリチウム硫黄電池のエネルギー基底状態や双極子モーメントをシミュレートして、将来の製品化に向けた基礎研究を行った。
(2)金融
金融業界もまた、発展途上にある量子コンピュータの導入に極めて積極的だ。
投資銀行やヘッジファンドなどは、「裁定取引」のように同業他社より少しでも優位に立つことで巨額の利益を手にすることができる。このためライバルに先んじようとする金融機関にとっては、近い将来、量子コンピュータが不可欠の差異化要素になる可能性が高いからだ。
英ナットウエスト・グループや豪コモンウェルス銀行、米シティグループなどはカナダの「1Qビット」など量子ソフト開発スタートアップ企業に出資している。中でもナットウエストは1Qビットと共同で、不良債権処理に費やされるコストの計算時間を短縮する量子アルゴリズムを開発した。
米国の大手投資銀行ゴールドマン・サックスは投資戦略の効率性を高めるために、量子コンピュータを使って「モンテカルロ・シミュレーション」を高速化しようとしている。
モンテカルロ・シミュレーション、あるいはモンテカルロ法とは、本来、方程式を解く等、決定論的に解を求めるべきだが、実際にはそれが難しい問題に対し、大規模な乱数を発生させることで統計的(近似的)に解を求める方法だ。
一例としては、円周率πを求めるために正方形とそれに内接する四分円で乱数を発生させて無数のドットを描き出す方法がある(図1)。正方形と四分円に含まれるドット数の比を4倍すれば、概ねπに近い値が統計的に算出される(これはモンテカルロ・シミュレーションの例題として、よく大学のコンピュータ利用教育などで出題される)。
金融業界におけるモンテカルロ法は、多彩な株式、通貨、商品、オプションなどに内在するリスクや不確実性をシミュレートするために使われるケースが多い。
ゴールドマンサックスと米国の量子ソフト開発スタートアップ「QC Ware」の共同研究によれば、量子コンピュータを導入することでモンテカルロ・シミュレーションを従来より1000倍高速化できる可能性があるという。
(続く)
KDDI総合研究所リサーチフェロー 小林 雅一