研究員がひも解く未来

研究員コラム

世界的な主要企業の量子コンピュータに対する取り組み 中編:IBM

 2019年10月、グーグルが自主開発した量子コンピュータで「量子超越性」を達成したと主張した際、IBMは即座にその信ぴょう性を疑う声明を発表した(連載第5回参照)。

 グーグルが「我々の量子コンピュータを使えば200秒で解けるが、従来のコンピュータなら1万年かかる」とする特殊な計算問題は、実は既存のIBM製スパコンを使っても2日半で計算が終わるという。つまり「その程度の計算問題では量子超越性を達成した証にはならない」とIBMは言いたいのだ。

 こうした強気な声明の背景には、長年に渡って量子コンピュータの研究開発に取り組んできたIBMの自負が窺える。

 一般に量子コンピュータの構想を世界で最初に唱えたのは、伝説的な米国の物理学者リチャード・ファインマン博士とされる。博士が1981年に自らの講演で述べた「自然をシミュレートするには量子力学的に実現すべきだ」とするアイディアがそれである(連載第1回参照)。

 しかしIBMの見方では、量子コンピュータの起源はそれより遥か以前にまで遡る。

 1961年、IBMの基礎研究所で情報理論等を研究していた物理学者ロルフ・ランダウアー博士は有名な「ランダウアーの原理」を提唱する。この原理は、コンピュータによる計算のエネルギー効率性に関するものだ。

 入力から出力が一意に定まると同時に、その逆、つまり出力から入力も一意に定まるような計算は「可逆計算」と呼ばれる。ランダウアーの原理では、可逆計算は熱を発生しないので、非常にエネルギー効率の良い計算である。

 量子力学の理論的な礎である「シュレディンガーの波動方程式」は時間の向きを逆転させても不変であることから、量子力学に従う計算方法もまた可逆計算モデルの一つと考えられた。つまり量子計算機はエネルギー効率が極めて高く、桁外れの省エネを実現する次世代のコンピュータになることが予想された。

 IBMの見方では、まさにこの「ランダウアーの原理」と可逆計算モデルの研究こそが量子コンピュータ開発の端緒ということになる。一方、ファインマン博士が提唱したのは量子コンピュータの「超高速性」を示唆したアイディアに過ぎないという。この見方に従えば、確かに量子コンピュータを世界で最初に構想したのはIBMということになる。

基礎研究からクラウド・サービスの段階へ

 同社はその後も、量子コンピュータの基礎研究で世界をリードした。

 1990年代、大規模な素因数分解を可能する「ショアのアルゴリズム」やデータベース探索を高速化する「グローバーのアルゴリズム」など画期的な量子計算モデルが次々と考案され、この分野への関心が高まってきた。これを受け、2000年には当時IBMに在籍していた理論物理学者デイヴィッド・ディヴィンチェンゾ博士は実用的な量子コンピュータが満たすべき条件をまとめた。

 それは「大規模化が可能な量子ビットの実現」「量子状態を十分長い時間保つこと」など5つの要件から成り、これ以降の世界的な量子コンピュータ開発に大きな影響を与えた。

 またIBM自身も2001年、同社のアルマーデン研究所で僅か7量子ビットの量子計算機を開発し、これにより「15=3×5」という初歩的な因数分解をやって見せた。ただ、この装置は特製の化学分子を使って試験管の中で量子ビットを実現する等、実用的な量子コンピュータからは程遠いものだった(連載第2回参照)。

 やがてIBMはより実用的な「超電導量子ビット」方式へと舵を切り、2016年にはこの技術をベースにして5量子ビットの計算機を開発。これを「IBM Quantum Experience」と名付け、クラウド・サービスとして一般公開した。

 2017年5月には、16量子ビットにまで拡張したマシンを「IBM Q」という通称で提供し始めた(正式名称はIBM Quantum System One)。IBM Qは米国やドイツなど欧米諸国の企業に導入され、今年7月には日本でも稼働を開始した。現時点では27量子ビットにまで拡張されており、神奈川県川崎市の「かわさき新産業創造センター」に設置されている(図1)。

図1 かわさき新産業センターに設置されたIBM Quantum System One(IBM Q)
出典:https://www.ibm.com/blogs/think/jp-ja/the-day-when-the-falcon-alighted-to-kawasaki/

この神秘的な風貌の新型計算機は今後、東京大学を中心に日本の産業界と共同利用・研究が進められていく。そこにはトヨタ自動車や三菱UFJフィナンシャルグループをはじめ、日本の産業各界を代表する企業が名を連ねている。これら主力企業が一斉に群がるIBMの量子コンピュータ「IBM Q」とは、具体的にはどのような計算機なのか?

量子コンピュータの動作メカニズム

 IBM Qは超電導方式に従う量子コンピュータの中でも、特に「トランスモン(transmon)」と呼ばれる技術をベースにしている。

 トランスモンは2007年、米イェール大学の研究チームによって開発された技術で、電荷雑音への耐性に優れた超電導量子ビットとされる。

 このIBM Qに仕事をさせるには従来のコンピュータと同様、「0」と「1」が交互に並んだビット列を入力してやればよい。このビット列は入力装置の内部でマイクロ波から作られるパルス信号へと変換され、これによって波動性を一つの特徴とする量子計算への準備が行われる。

 入力装置を出たパルス信号は、超電導状態を実現する複雑なワイヤーとパイプ等から構成されるトランスモンへと転送され、ここで「0」と「1」の状態を併せ持つ量子ビットへと変換される。

 後続のパルス信号は、これら超電導量子ビットに該当する波形を操作するために使われる。この操作は量子ゲートと呼ばれる仕組みによって実現され、数学的にはベクトルや行列など線形代数の演算に相当する(連載第3回参照)。

 これらの処理は量子並列性による超高速計算を可能にするが、その途中の様子を外部から観測することはできない。最終的には超電導量子ビットによる波の「干渉」と呼ばれる現象を使って、並列に存在する無数の波を一つに絞り込む。これが量子コンピュータ(IBM Q)が導き出した解であり、この時点で再び「0」と「1」が交互に並んだ(従来の)ビット列、つまり我々が普通に観測できる状態になっている。

 このIBM Qに代表される量子コンピュータは人類が今まで解決できなかった様々な難問に新たな突破口を与え、いずれは私達の社会と未来を大きく変えると見られている。それは「金融」「自動車」「航空機」「エネルギー」「素材」「化学」など、数多の産業領域をカバーする。既に産業各界でエントリーレベルの量子コンピュータが試験的に使われ始めているが、その利用の様子は後の連載で見ていくことにしよう。

(続く)

KDDI総合研究所リサーチフェロー 小林 雅一