リング禍のプロボクシング界
2025年8月、後楽園ホールで行われたプロボクシング[1]興行で、神足茂利選手と浦川大将選手が、それぞれの試合後に意識を失い、のちに亡くなった。いずれも、急性硬膜下血腫[2]を発症したとみられている。同一興行で2名が命を落とすというのは、極めて異例のことで、大きく報じられた。
大きく報じられたのには、他にも背景がある。その前年にも、日本タイトルマッチに出場した穴口一輝選手が急性硬膜下血腫で亡くなっていたからである。つまり、偶然の悲劇ではなく、ここ最近、深刻な事故が相次いでいるように見え、曖昧な注意喚起では許されない空気感があった。
同一興行で2選手が亡くなってからまもなく、日本ボクシングコミッション(JBC)は国内で行われる世界戦以外のタイトルマッチのラウンド数[3]を12回から10回に短縮することに加え、会場での救急搬送体制を強化すること、試合直前の水抜きを防ぐための仕組みを検討することを発表した[4]。
その一方、弁護士、医療関係者、JBC関係者などで構成される事故検証委員会は、穴口選手の死亡時に出された再発防止策が徹底されていなかった点や、1年以上経っても安全対策の議論が本格化していなかった点を問題視し、JBCの対応を厳しく指摘した。その上で、事故検証委員会から次の6つが提言されている[5]。
- ①健康管理委員会の再編
- ②後方支援病院の拡充並びに安全対策強化
- ③トレーナーの教育を目的とした講習会の実施等
- ④過度な減量の危険性への啓もう、厳格なルール化。特に過度な水抜き減量の禁止
- ⑤搬送経路、搬送手順などの見直し強化
- ⑥将来の健康管理を見据えたデータ収集
いずれも「やらない理由はない」と思える内容であるが、大きく2つの方向性があるように見える。1つは、もし倒れてしまったときに、できるだけ早く助けるためのもので、「応急処置」である。ここには、②⑤が入る。
もう1つは、そもそも倒れることを減らす、危ない状態でリングに上がらないようにするもので、「予防策」である。④はその代表に見え、③もここに近い。⑥は、すぐには役に立たないかもしれないが、長期的にデータを集めれば「どんな条件で事故が起きやすいか」が見えてくるので、最終的には予防策につながるだろう。
残る①は、「応急処置」「予防策」を動かす土台づくりで、どちらにも関わる部分がある。
水抜きとは?
ところで、最近のプロボクシングの死亡事故に関する報道や関係者のコメントの中には、水抜きが影響した可能性を指摘する声が多い。実際、前述した6つの対策のうち、特に具体的に語られていることからも、過度な水抜きに関する懸念は大きい。
そもそも水抜きとは、体重の50%以上を占める体水分を試合直前に一時的に減らすことを言う[6]。代表的な水抜きの手段としては、半身浴、サウナ、暖房の利いた室内やサウナスーツを着用した状態での有酸素運動などが挙げられる。水抜きによって落ちた体重は計量後に飲食物を補給するとあっという間に戻る。そのため、計量の当日ではなく翌日に試合が行われるプロボクシングでは、「計量のときだけ規定体重をクリアすればよい」という発想に加え、「当日はできるだけ体重を増やしたほうがフィジカルで優位に立てる」という考えも働きやすい。
水抜き=悪、は本当か?
では、水抜きは本当に主たる原因なのだろうか?
水抜きが脳のダメージに加重するとした場合、考えられるメカニズムは、水抜き前に比べて体重自体が戻ったとしても、電解質濃度などからみた脱水状態からは回復できておらず、バランス能力や反応時間といった身体機能が悪化し、パンチを被弾しやすい状態でリングに上がっている可能性が挙げられる[7]。
また、近年では、水抜きによって体内が脱水状態に陥ると、脳そのものにも影響を及ぼすことが指摘されている。例えば、健康な成人に12時間の飲水制限を行わせただけで、脳組織内の水分や脳全体の体積が減少することが明らかになっていて、軽度の脱水でも脳は萎んでしまう[8]。こうした状態は、脳と硬膜をつなぐ静脈にかかるテンションが相対的に高まり得る条件に近いと推測され、強い衝撃を受けた際にマイナスに働く可能性がある。
ただし、これらはあくまでも考えられるメカニズムであって、水抜きとリング禍の因果関係を証明するものではない。
実態との矛盾
実際、水抜きを主因とみなすことは、格闘技界の実態と矛盾している側面がある。すなわち、一般に水抜きの程度は、プロボクシングより総合格闘技[9]で著しいからである。例えば、様々な競技種目の格闘家を対象として、減量に関するアンケートを実施した研究では、総合格闘家はボクシング(アマチュアを含む)を含む他競技の選手より、より大きな割合で体重を落としていることが報告されている[10]。
それにもかかわらず、試合中の頭部打撃に起因する死亡例が多く積み上がってきたのはプロボクシングである。米国整形外科スポーツ医学会が2024年にまとめたレポートでも、ボクシングでは試合中の負傷に起因する死亡が累計で1000件超と推定される一方、総合格闘技の試合で報告された死亡は7件にとどまると指摘されている[11]。もちろん、歴史の長短が一致しないため厳密な比較ではないが、同レポートでは直近1年でもボクシングでは、死亡事故が4件起きていたことが指摘されており、致死的アウトカムの偏りは単なる競技史の長短では説明しがたい差のようである。
また、JBCが過去に講じた対策からも、水抜きは主要な要因ではない可能性が示唆される。具体的には、1990年代半ばに行われた当日計量から前日計量への移行と、6オンスグローブの禁止というルール変更である。ここで押さえておきたいのは、当日計量では過度な水抜きは行いにくいということである[12]。なお、6オンスグローブの禁止は、軽量グローブの使用を制限することで被弾時の衝撃を抑えられるはずだ、という国際的な発想に沿う措置であった。しかし、米国・ユタ大学の研究者らが1952~2016年のJBC公認試合による死亡率を分析した結果、これらのルール変更の前後で統計学的な変化は認められなかった[13]。これは、計量のタイミングやグローブの重さは、リング禍には直結しないことを示唆している[14]。
この問題の本質は、水抜きよりも、プロボクシングが頭部への打撃偏重の競技であり、一試合で多数のパンチをもらいやすく、ダウン後も試合が再開されやすいことではないか。
当たり前だが、プロボクシングは頭部への衝撃が重なりやすい。一方、見た目的にはより派手な総合格闘技は打撃、組み、寝技と局面が移り変わるため、頭部打撃が連続する時間は相対的に短い。加えて、頭部打撃で選手がダウンし動きが止まれば、レフェリーは速やかに試合を止めにくる。試合時間も、総合格闘技は5分×3ラウンド(最大15分)が一般的であるのに対し、プロボクシングは競技レベルが上がると3分×10~12ラウンド(最大36分)と倍にもなる。致死的なアウトカムがプロボクシングに偏って報告されている事実は、プロボクシングそのものの競技特性で説明したほうが合理的に思える。
その上で、水抜き(急速減量)は、仮に影響があるとしても、頭部打撃のダメージを悪化させ得る助長因子程度のものだろう。水抜きを規制しても、リング禍のプロボクシング界は変えられないと筆者は考える。
死亡事故を防ぐための理想案
以上を踏まえると、死亡事故を防ぐことだけを念頭に置けば、予防策の理想が見えてくる。すなわち、ラウンド数の大幅短縮に加え、一試合で複数のダウンが生じた時点で即試合終了とする。さらに、頭部への有効打の累積を基準化して早めに止める運用もあり得るだろう。リアルタイムでの厳密な計測は現状では発展途上だと思われるが、映像、センサーの活用による被弾回数のカウントは技術的には十分可能で、AI判定技術の進歩によって、これらの運用は数年以内に現実味を帯びるだろう。
ただ問題は、これらの対策がプロボクシングという競技そのものを変えてしまうという点にある。ラウンド数や試合時間を極端に制限すれば、戦い方は必然的に変わる。また、プロボクシングの歴史を作ってきた激しい打ち合いの大熱戦も生まれにくくなり、興行の構成、放送の扱い、しいてはファイトマネーまで見直す必要が生じるだろう。参考として、誰にどのような利点・懸念が生じるかを、筆者なりに整理しておく(表)。
表 プロボクシングのラウンド数大幅短縮・早期試合終了による立場別の利点と懸念
| 利点 | 懸念 | |
|---|---|---|
| 選手 | 致死・重篤後遺障害の確率的低下。被弾累積の見える化により恣意性の少ない停止が期待できる(可視化が伴う場合)。 | 長期戦で強みが出るタイプの選手には戦術的不利が生じる。準備(トレーニング設計)の再最適化が必要となる。 |
| 興行主(プロモーター・放送主) | 明確な安全基準は、プロボクシングがスポーツとして存在し続けるために求められる法的・社会的リスクの低減に資する。 | 打ち合いの頻度や密度が減ることで、即時的な盛り上がりが下がる可能性がある。また、放送の編成や尺に加え選手への報酬を再設計する必要もあるだろう。 |
| 観戦者(視聴者・来場者) | 重大事故の不安が小さいことによる視聴継続の基盤ができる。「なぜ止めたか」の納得感(可視化が伴う場合)が得られる。 | 試合時間の短縮や打ち合いの場面の減少といった瞬間的な刺激の低下により物足りなさを感じる場面がある。 |
では、どうするべきなのか。後編では、選手の安全を第一に、ラウンド数の大幅短縮・早期試合終了をせずにできることがないのか、引き続き筆者なりに考えてみたい。
独立研究者(KDDI総合研究所リサーチフェロー) 髙山 史徳
[1] 本稿はプロボクシングを主としている。同じボクシングでも、アマチュアは試合時間(通常3分×3ラウンド)や装備(ヘッドギアの運用等)が異なり、怪我の発生状況もプロとは異なる。アマチュアとプロにおけるリング禍による死亡事故を直接比較できる情報源は乏しいものの、致死例はプロ側へ偏って蓄積しているというのが一般的見解である。
参考:Mao, Y., Zhao, D., Li, J., & Fu, W. (2023). Incidence Rates and Pathology Types of Boxing-Specific Injuries: A Systematic Review and Meta-analysis of Epidemiology Studies in the 21st Century. Orthopaedic journal of sports medicine, 11(3), 23259671221127669. https://doi.org/10.1177/23259671221127669
[2] 頭部外傷が原因で、脳の表面(くも膜)と硬膜との間に貯留した血腫のこと(中略)。特にスポーツに伴う急性硬膜下血腫では脳挫傷を伴わないことが多く、外傷直後に意識障害を認めず、数時間以内に症状が進行することもあり、注意が必要。
(出典:(社)日本神経外科学会.急性硬膜下血腫.https://square.umin.ac.jp/neuroinf/medical/303.html)
[3] 日本のプロボクシングには、世界タイトルマッチ以外にも、日本、東洋太平洋、アジア・パシフィックなどの国、アジア地域のタイトルマッチが存在する。
[4] デイリースポーツ.「ボクシング 相次ぐリング禍受け 自前の救急車配備、過度な減量制限など対策導入へ JBCとプロ協会が緊急会合」https://www.daily.co.jp/ring/2025/08/13/0019343649.shtml (2025年8月13日配信、2025年11月9日閲覧)
[5] サンケイスポーツ.「【ボクシング】神足茂利さんと浦川大将さんの事故検証委員会、JBCの責任を厳しく追及 穴口一輝さんの事故検証委員会が提言した再発防止策が不徹底だったと指摘」https://www.sanspo.com/article/20251001-GMZBG7JPUFN47N5ZUI5SSJXLVM/?outputType=theme_fight(2025年10月1日配信、11月9日閲覧)
[6] 水抜きについては、過去のコラムで詳細を触れている。髙山史徳「総合格闘技界の水抜き事情から考える健康とハイパフォーマンスの妥協と協力」 (研究員コラム 2023-09-27)https://rp.kddi-research.jp/atelier/column/archives/4824
[7] 短期間の急速減量は、筋力、無酸素能力などの低下を来たす上、緊張、抑うつ、活力の低下などの認知面の変化を伴うことが多い。その結果として注意、予測、意思決定の精度が低下し得る。
参考:Martínez-Aranda, L. M., Sanz-Matesanz, M., Orozco-Durán, G., González-Fernández, F. T., Rodríguez-García, L., & Guadalupe-Grau, A. (2023). Effects of Different Rapid Weight Loss Strategies and Percentages on Performance-Related Parameters in Combat Sports: An Updated Systematic Review. International journal of environmental research and public health, 20(6), 5158. https://doi.org/10.3390/ijerph20065158
[8] Biller, A., Reuter, M., Patenaude, B., Homola, G. A., Breuer, F., Bendszus, M., & Bartsch, A. J. (2015). Responses of the Human Brain to Mild Dehydration and Rehydration Explored In Vivo by 1H-MR Imaging and Spectroscopy. AJNR. American journal of neuroradiology, 36(12), 2277–2284. https://doi.org/10.3174/ajnr.A4508
[9] 総合格闘技(Mixed Martial Arts)は、打撃、組技、寝技を統合した格闘技競技である。世界的メジャー団体のUFCを含む多くの団体はユニファイドルール(米国の州アスレチック・コミッションなどが採用する標準規程)を用い、ダウンした相手の頭部への膝蹴り、キック(いわゆるサッカーボールキック)および踏みつけは禁止である。一方、日本ではRIZINが著名で、サッカーボールキックなどを認めるルールを基本としつつ、カードによっては過激な攻撃を制限する特別則を併用している。
[10] Barley, O. R., Chapman, D. W., & Abbiss, C. R. (2018). Weight Loss Strategies in Combat Sports and Concerning Habits in Mixed Martial Arts. International journal of sports physiology and performance, 13(7), 933–939. https://doi.org/10.1123/ijspp.2017-0715
[11] Dean, R. S., & Guettler, J. H. (2024). Mixed Martial Arts: Injury Patterns, Trends, and Misconceptions. AOSSM Sports Medicine Update. https://www.sportsmed.org/membership/sports-medicine-update/summer-2024/mixed-martial-arts-injury-patterns-trends-and-misconceptions (2025年11月9日閲覧)
なお、死亡件数は公開・報告ベースの概数であり、プロ・アマの区別は本文中で明示されていない。
[12] もっとも、導入当時は「前日計量にすれば回復時間が確保され、危険な当日水抜きは減るはずだ」という見方が主流で、ルールが変更された側面もある。
[13] Teramoto, M., Cross, C. L., Cushman, D. M., & Willick, S. E. (2018). Boxing fatalities in relation to rule changes in Japan: secondary data analysis. The Physician and sportsmedicine, 46(3), 349–354. https://doi.org/10.1080/00913847.2018.1428028
[14] もっとも、本研究は後ろ向き観察研究であり、発生数が少ないため差を検出しづらく、医療体制や興行数、選手層の変化などの他の要因の影響を取り除けない点に留意が必要である。