研究員がひも解く未来

研究員コラム

ブレインテック・ビジネスの光と影(前編)

 私達の脳とコンピュータやロボット・アームなどをつなぐBMI(ブレイン・マシン・インタフェース)。その基礎研究は世界各国の大学等で1970年代から地道に進められてきたが、最近、著名起業家イーロン・マスク氏が経営するニューラリンクやフェイスブックのような巨大IT企業の参入を受けて、俄かに脚光を浴びている(これまでの連載)。

 BMIには外科手術で脳にセンサー(電極)や半導体チップ等を埋め込む「侵襲型」と、手術をせずにヘッドマウント型の専用端末等を装着する「非侵襲型」の2種類がある。

 現在までに実用化(商用化)されているBMI製品のほとんどは非侵襲型だ。それらは「脳で念じて遊べるビデオ・ゲーム」や「睡眠改善用ヘッドバンド」、あるいは「オフィス・ワーカーの生産性向上ツール」や隠れた消費者心理を脳から探る「ニューロ・マーケティング」など多岐に渡る(「BMI商用化の現状」 )。

安全性の問題と心理的抵抗感

 一方、侵襲型のBMIは現在、ニューラリンクをはじめ世界でも限られた数の企業が商用化に向けて技術開発を加速させている。ただ、頭蓋骨をドリルで切開してセンサーのような異物を脳に埋め込むだけに、そう簡単に実用化できるわけではない。脳に埋め込まれた異物が炎症・出血・化膿を引き起こすなど安全面での懸念や、突如現れた新種の脳外科手術に対する一般消費者の心理的な抵抗感など様々な課題が山積している。

 それでも企業各社が敢えて実用化に踏み切るとすれば、相当強い動機や必要性に迫られてのことだ。その条件に最もマッチするのは、重度の身体麻痺に対する治療など医療分野への応用であろう。

 数あるBMI企業の中で最も知名度の高いニューラリンクは、脊髄損傷や神経変性疾患などで身体が麻痺した患者らに向けて侵襲型の技術開発を進めている。そして、同社以外のケースでも概ね、これと同様の医療応用を目指している。

 侵襲型BMIには、それを実現する上で幾つかの異なる方式がある。

 その一つは、(前述のように)頭蓋骨を切開して脳にセンサーやチップ等を埋め込む方式だ。これは既に大学など基礎研究レベルでは実際の患者らを対象に臨床試験が実施されているが、ニューラリンクなど事業化レベルでは未だマウスや豚、あるいはマカク猿等を使った動物実験の段階だ。

 ただ、脳にメスを入れて異物を埋め込むといった一種過激な方式には、いくら身体麻痺など重度障害に対処するためとは言え、患者らの間で心理的な抵抗感が生じる可能性もある。そこで、これよりは若干穏便な方法でBMIの医療応用を目指す企業もある。

脳に張り巡らされた血管を利用

 その一つが、米豪両国に拠点を構えるスタートアップ企業「シンクロン(Synchron)」だ。同社が開発した「ステントロード(Stentrode)」と呼ばれる技術は、脳内の血管を介して医療用BMIを実現する一風変わった方式だ。

 私達人間の脳内には無数のニューロン(神経細胞)や、その働きをサポートするグリア細胞等が存在し、これらが共同して高度の情報ネットワークを形成している。

 昼夜を問わず活動するこれら脳細胞に、酸素や水分、栄養分などを絶え間なく供給するため、大量の血液が必要とされる。また、それら脳細胞の活動によって生じる二酸化炭素や老廃物などを排除するため、これらを含んだ血液を心臓へと循環させる事も必要だ。

 このために、脳内には各種の動脈や静脈、毛細血管などが張り巡らされている。

 シンクロンが開発したステントロードは、これら血管のうち特に「静脈」の内部へと挿管される網状センサーだ。このステントロードという呼称の由来は、「ステント」と「エレクトロ―ド(電極)」を足し合わせた造語である。

 この説明に入る前に、まずは近年、いわゆる内科的手術、あるいは「切らない手術」として注目されている「カテーテル治療」や「ステント治療」について簡単に紹介しておこう。

 ステントは金属製の網状チューブで、通常はカテーテルと呼ばれる直径数ミリの柔らかいチューブと共に使われる。

 医師はまず、脳梗塞や心筋梗塞などを起こした患者の手首や脚の付け根の動脈からカテーテルを挿入し、これら病気を引き起こす動脈の狭窄部までカテーテルを到達させる。

 ここから、閉じた状態のステントをカテーテルに挿管して狭窄部まで送り届ける。そしてステント内部のバルーンを膨らませてステントを開かせ、狭くなっていた血管を押し広げる。こうして血管内で血液がスムーズに流れるための十分なスペースを確保することによって、これらの病気を治療するのである。

切らない手術でBMIを実現

 ステントロードはこのステントをBMIに応用した画期的な技術だ。近い将来、実用化された暁には、脊髄損傷や神経変性疾患などで身体の麻痺した患者に使われることを想定している。

 医師はまず患者の首の付け根からカテーテルを差し込み、静脈を通して脳まで到達させる。このカテーテルに閉じた状態のステントロードを挿管して脳まで送り届ける。この状態でカテーテルを引き抜きながらステントロードを開き、そのまま脳の静脈内に留置するのである(図1)。

 ステントロードには多数のセンサー(電極)がついている。静脈は脳全体に張り巡らされているので、その内部に留置されたステントロード(の電極)は、脳内のニューロンが発する電気信号を広範囲に渡って測定することができる(図2)。この信号をケーブルや無線で脳の外部に送信することによって、身体の麻痺した患者がコンピュータやロボットアームを操作したり、行く行くは失われた手足の自由を取り戻すことを目指している。

 ステントロードの長所は、ニューラリンクのように電極やチップを脳に埋め込むための切開手術を必要としないこと。つまり「切らない手術」のBMI版というわけだ。このため患者にとって安全性が比較的高く、心理的抵抗感の小さい侵襲型BMIを実現できる、と期待されている。


図1 カテーテルの中で閉じていたステントロードが開いて、脳の静脈内に留置される様子
出典:https://www.youtube.com/watch?v=NZlIL0iI1Sg
図2 ステントロードは静脈を通じて脳全体に広がる
出典:https://www.youtube.com/watch?v=mm95r05hui0&t=27s

(次回に続く)

KDDI総合研究所リサーチフェロー 小林 雅一