量子計算機ブームに火をつけた先駆企業D-Wave Systems

 1980年代に基本的なコンセプトが発案された量子コンピュータは、今世紀に入るとIBMやヒューレットパッカード(HP)など巨大IT企業がその試作機を作るなど、徐々に研究開発が進められてきた(連載第2回を参照)。

 しかし、現在の量子コンピュータ・ブームの火付け役となったのは、それら名の通った大手企業ではなく、むしろダークホース的な会社だった。それはカナダのスタートアップ企業「D-Wave Systems(以下、D-Wave)」である(図1)。

図1 D-Waveが2017年にリリースした「D-Wave 2000Q」
出典:https://dwavejapan.com/

競合他社から隔絶したスペック

 D-Waveは1999年、カナダのブリティッシュ・コロンビア州に設立された。創業後しばらくは、ほとん注目されなかったが、2011年に同社の第1号機となる128量子ビット(qubit)の計算機「D-Wave One」、2013年には第2号機となる512量子ビットの「D-Wave Two」を発売して一躍脚光を浴びた。

 これらD-Waveの”量子コンピュータ”は(後述するように)グーグルのような著名企業に採用されることで世界的な注目を浴びる一方、物理学者をはじめ専門家の間では一種眉唾で見られていた。

 その理由の一つには、D-Waveが当時、他社の量子コンピュータ(試作機)とは隔絶するスペック(仕様)を誇っていたことがある。128量子ビットのD-Wave Oneが発売された2011年頃には、IBMをはじめ大手企業が開発中のマシンはせいぜい7、8個の量子ビットに止まっていた。

 これら世界的メーカーでもその程度なのに、D-Waveのような全く無名のスタートアップ企業がいきなり128量子ビットのマシンを開発したと主張しても、そう簡単に信じてもらうわけにはいかなかった。実際、物理学者ら専門家の間では「これは本物の量子コンピュータではない」とする否定的な見解が少なからず聞かれた。

 これに対しD-Wave側では、量子コンピュータを実現する方式の違いを主な理由として、自らのマシンが本当に量子力学の原理に従って計算していると主張した。

非主流の量子アニーリング方式を採用

 この方式の違いとは一体どういうことか?

 当時、IBMやHP、ハネウェルなど巨大メーカーはこぞって量子ゲート方式のマシンを開発するなど、この方式が量子コンピュータの主流だった。しかし量子ゲート方式の欠点は、外部ノイズの影響を受け易く不安定であるため、折角作った量子ビットがすぐに壊れてしまうことだった(連載第2回参照)。

 一方、D-Wave共同創業者の一人で、最高技術責任者(CTO)でもあるジョーディ・ローズ氏は同社を創業して間もなく「量子ゲート」方式に見切りをつけ、それとは異なる「量子アニーリング」方式に注目した。これは1998年、東京工業大学教授(当時)の西森秀稔博士らが考案した量子計算アルゴリズムである。

 この量子アニーリング方式は「基底状態」と呼ばれる非常に安定した状態を扱う技術なので、これが量子ビット数を(IBMなど他社に比べて)大幅に増やすことが出来た主な理由である、とD-Waveは主張した。

 量子アニーリングは一種のアナログ計算方式であり、汎用デジタルの論理ゲート方式に比べて応用範囲が限られている。具体的には有名な「巡回セールスマン問題」など、いわゆる「組み合わせ最適化」と呼ばれる問題に特化したアルゴリズムだ。そのせいか、量子アニーリングの基礎研究は為されてきたものの、これを使って実用的な量子コンピュータを開発しようとする試みは他に見当たらなかった。

 しかしD-Waveはこの異端の方式を採用して自社のマシン開発に取り組んだ。そして同社第2号の製品となる(前述の)D-Wave Twoの上で「ある特定の最適化問題を処理した際、従来のコンピュータに比べて3600倍ものスピードで計算を行うことができた」と主張した。

 ただ、一口にコンピュータと言っても、下はパソコンから上は大型のメインフレームやスパコンまで色々な種類がある。D-Waveはそれを具体的に示さなかったが、後日、ニューヨークタイムズなど米紙が報じたところでは、同社の言う「従来のコンピュータ」とは米アマースト大学で技術社会論を担当している教授が普段研究用に使っているIBM製の「パソコン(PC)」であった。つまり同教授がIBM PCとD-Wave製マシンとで行った比較テストから、前述の「3600倍のスピード」という結果が得られたのだ。

 これを知ったとき、筆者は正直興覚めした。確かに教授のIBM PCは研究用のマシンである以上、一般の家庭用パソコンよりは上位機種の製品であろうが、パソコンは所詮パソコンに過ぎない。スパコンやメインフレーム等と比較したのならとにかく、実際にはパソコンを相手に、その3600倍の速さで計算できたと言っても、それだけでD-Waveのマシンが(量子並列性に基づく)本物の量子コンピュータであると主張するのは無理がある。

グーグルに採用されて一躍有名に

 とは言え、当時この”量子コンピュータ”を人工知能の研究開発に応用しようと試みたのがグーグル(アルファベット)だ。同社は2013年に米航空宇宙局(NASA)などと共同で「量子AI研究所(Quantum Artificial Intelligence Lab)」を設立。ここで量子コンピュータを使い、「ウェブ検索」や「音声認識」などに必要となるAI技術「ディープラーニング」を最適化する研究を行うと発表した。

 このためにグーグルは、「D-Wave Two」を推定1000万ドル(10億円以上)の値段で購入した。このマシンは(前述のように)512量子ビットのプロセッサを搭載した、世界初の実用的な量子コンピュータであるという。このようにグーグルから一種認められたことによって、それまで無名だったD-Waveは一躍世界的に有名になった。

 やがて2015年12月、グーグルとNASAは共同記者会見を開催。そこで「過去2年に渡る運用の成果等から、D-Waveの量子コンピュータは従来のコンピュータに比べて1億倍高速であることが確かめられた」と発表した。が、このときも「従来のコンピュータ」が具体的にどんな種類のコンピュータであるかを明らかにしなかった。計算速度等についての実質的な意味がある発言というより、自分達が行っている研究の凄さを世間にアピールする一種のブラフと見るのが妥当だろう。 

現時点では試験機という位置付け

 他方、第三者による客観的な視点からは、D-Wave製品を含む様々な”量子コンピュータ”は(少なくとも現時点では)未だ実用的な計算機というより一種のテスト用マシンに過ぎないと見られている。たとえばウォールストリート・ジャーナルの記事は次のように評価している1)

 「現在、商用化の段階に達した量子コンピュータは市場に存在しない。しかしD-Waveをはじめ多くの会社は、いつの日かスパコンなど伝統的なコンピュータよりも遥かに強力なマシンを実現すべく、様々な技術や方式に基づく量子コンピュータを開発中だ。一方、金融機関や自動車会社などは現在、D-Waveのようなメーカーが提供する初期段階の量子コンピュータを試験的に利用している」

 2021年10月、D-Waveはこれまでの量子アニーリング方式に加え、今後は量子ゲート方式のマシンも開発していく方針であると発表した。世界的な知名度を獲得した同社と言えども、実際には様々な技術や方式を試行錯誤する研究段階にあることを示唆している。それが量子コンピュータの偽らざる現状なのだ。

(続く)

KDDI総合研究所リサーチフェロー 小林 雅一

参考文献

  1. “D-Wave Opens Quantum-Computing Resources to Coronavirus Research,” Sara Castellanos, The Wall Street Journal, April 1, 2020