研究員がひも解く未来

研究員コラム

ウェアラブル民主化時代の「知る」という選択

「知る幸せ」と「知る不幸」

以前のコラム[1]にて、近年、多くの人が利用しているウェアラブルデバイスがもたらす「知る幸せ」と「知る不幸」を考察した。終盤では、筆者自身のマラソンレースを題材に、データを知ることが必ずしも幸福につながるとは限らないことを紹介している。その要旨は次の通りである。

  1. レース中に心拍数を知ることはオーバーペースを防ぐ助けとなる。
  2. 近年では、不快感や圧迫感の少ない上腕装着型のデバイスでも十分なデータが取得できるようになってきた。
  3. 筆者はランナーとしても研究者としても心拍数を熟知しており、マラソンレースの前半をどの程度の心拍数で走り始めれば後半の大失速を避けられるかを理解している。事実、2015年以降、全レースで安定した走りを続けていた。
  4. 一方で最近は、データを知ることの弊害を感じていた。実際、レース終盤に心拍数が最高値に達していることを知った瞬間、「もう無理だ」と諦めに近い状態に入ってしまうなど、知ることがマイナスに作用する場面もあった。
  5. 締めくくりとして、自己記録の大幅更新を目標に大会へ参加予定であり、レース中に心拍数を知りながら走るのか、知らないまま走るのか、まだ決めていないと述べた。

※いずれも当時の状況

さて、そのレースはどうだったのか。悩んだ末、筆者が選んだのは「知る」「知らない」を二者択一にしない方法だった。そのアプローチとは、30kmまでは心拍数を見ながら走り、終盤は見ないというもので、いわばハイブリッド型の戦略である。

その戦略は見事にはまり、自己記録を大幅に更新する結果につながった(2時間56分→2時間46分)。当時を振り返ると、「いつ知るか」とあらかじめ制限を設けたことが奏功したと感じている。

再現されない成功

他方、筆者はその後も複数回マラソン大会に参加し、30km以降は心拍数を見ないという戦略を採用し続けているものの、自己ベストの更新には至っていない。この事実は、データ活用の限界というよりも、パフォーマンス(成績)という現象の複雑さを実感させるものだろう。書いてしまえば当たり前のことだが、マラソンのパフォーマンスはトレーニング状況、栄養摂取、体調、気象条件など、多くの要因の重なりによって決まる。心拍数を知るか知らないかという判断は、そのわずか一部を構成しているに過ぎない。

さらに考えると、このハイブリッド戦略を初めて採用したときには、「終盤は見ない」と決めたこと自体が心理的な軽さをもたらしていた可能性もある。すなわち、戦略の中身というよりも、明確な戦略を持ったこと自体が筆者の支えになっていたのかもしれない。その場合、その新鮮さは一度きりである。二度目以降は既知のものとなり、特別な効果は感じにくくなる。

スポーツの科学者として考えていること

ここで少し視点を変え、一人のランナーとしてではなく、スポーツ科学に携わる専門家としても考えてみたい。レース中に心拍数をリアルタイムで知るかどうかという個人的な問いは、振り返ってみると、何をどのように知るべきなのかという、より広いテーマの一断面でもあるように思える。

近年のスポーツ界を見ていると、優れた成績を収めた選手やチームについて、その背景として「データ活用」や「科学的アプローチ」が語られる場面にしばしば出会う。もちろん、高機能なデバイスによる数値の収集や分析環境の整備が優れたパフォーマンスに寄与している可能性はあるだろう。

しかし、同じ対象を追い続けると、その後のパフォーマンスが必ずしも好ましいわけではないことにも気付く。すると、次のような違和感が浮かび上がる。好成績を収めたときには、その背景としてデータ活用やそれに付随した科学的アプローチが積極的に語られる。一方で、成績が振るわなかったときには、それらの関わり方が同じ温度感で扱われているようには見えない。メディア報道やチーム発信、あるいはSNS上の言説を眺めていても、成功時には科学が前景化され、停滞時には後景化されるという構図にしばしば出会う。

もし成功の要因としてデータや科学を位置づけるのであれば、結果が伴わなかったときにも同様に、その関わり方を問う必要があるのではないだろうか。現代では、データあるいは科学的という言葉が、良い結果を説明するときだけに都合のよい道具として用いられているかのように映ることも少なくない。

データは走らない

少なくとも筆者が日頃感じている違和感は、データを知る環境が整いつつある現代において、数値の存在とその理解とが必ずしも一致していないことを示しているのかもしれない。データはときに重要であり、状況を整理し意思決定を支える手がかりとなる。しかし、データそのものが競技を行うわけではない。走るのは、いつの時代も生身の人間である。

スポーツ現場では、あるアプローチや介入が成果に結びついたように見える場面は少なくないが、その因果関係を特定することは想像以上に難しい。トレーニング内容、コンディション、環境、心理状態など、多くの要因が同時かつ無秩序に作用する中で、単一の要素だけを切り出して評価することにはそもそも限界がある。

データが存在することと、それが適切に活かされていることとは別問題である。テクノロジーの進展により、私たちは以前よりはるかに多くの情報を知ることができるようになった。しかし重要なのは、どれだけ多くを知るかではなく、どの場面で知り、どの場面では知らないのかという設計と、知った情報をどのように受け止めるかという文脈だろう。ウェアラブルデバイスは情報へのアクセスを民主化した一方で、その情報との距離の取り方という新たな課題も生み出している。

直近では、多くのウェアラブルデバイスやアプリが単にデータを提示するだけでなく、評価や助言といったフィードバックまで行うようになっている。こうした機能は便利に見える一方で、常にその人にとって望ましいとは限らない。どの情報を知り、どの情報を知らないでいるのか、その主導権をどこまで他者やテクノロジーに委ねてよいのかという問いも浮かび上がってくる。ときにそれは頼もしい伴走者のようにも感じられるが、別の場面では余計なおせっかいのように受け取られることもある。

「知る」かどうかを選べる前向きさ

それでも、知ることも、知らないことも、自分で選べるようになってきたという事実は、前向きな変化のように思える。数年前、レース中に心拍数を知るのか知らないのか迷っていた筆者は、「知る時間を決める」という一つの答えにたどり着いた。その後も経験を重ねる中で、必ずしも同じ結果が得られるわけではないことも身をもって実感した。何を見るのか、いつ見るのかを含めて、ウェアラブルデバイスとの関係は一度決めて終わるものではなく、状況や経験に応じて更新され続けるように思っている。

知ることとの距離間を試行錯誤していくこと自体が、ウェアラブル民主化時代における一つの実践なのかもしれない。

独立研究者(KDDI総合研究所リサーチフェロー) 髙山 史徳

[1] 髙山史徳「知る幸せと知る不幸:ウェアラブルテクノロジーの功罪」 (研究員コラム 2023-11-10) https://rp.kddi-research.jp/atelier/column/archives/4922