「科学的トレーニング」という言葉を聞くと、心拍計、GPS、睡眠計、血液検査などを使って、選手をデータで管理する姿が思い浮かびやすい。確かにそれは、現代のスポーツ現場における科学の一部ではある。しかし、測ることと科学は同義ではない。
では、そもそも「科学」とは何だろうか。このコラムでは、そんなところから始めて、筆者が考える科学的トレーニングに求められることを記していきたい。
科学とは?
辞書を引けば、科学とは「一定の目的・方法のもとに種々の事象を研究する認識活動。また、その成果としての体系的知識」とある[1]。少しかみ砕くと、「仮説を立て、観察や検証を通じてその妥当性を確かめ、得られた知見を体系的に吟味していく営み」とでも言えるだろう。
心拍数を測っているから科学的。GPSを使っているから科学的。睡眠計をつけているから科学的。もしそうなら、デバイスを身につけた瞬間に、誰もが科学的トレーニングを実践していることになる。だが、本来の意味に基づくと、これだけでは科学的トレーニングとは言えない。
どれだけ多くのデータを集めても、その意味を吟味しなければ、科学的とは言えない。心拍数も、GPSも、睡眠スコアも、吟味されなければただの数字である。数字を集めることと、科学的トレーニングとの間には、まだ距離がある。
科学的トレーニングとは?
筆者が考える科学的トレーニングとは、既存のエビデンスや測定データを参考にしながら、日々のコミュニケーションを通じて、競技パフォーマンスに影響する要因を少しずつ調整していく営みである。英語で言えばfine tuning、日本語では微調整という言葉が近い。ただし、ここでいう微調整とは、単にその場の感覚で調整することではなく、複数の情報を照らし合わせながら、予定したトレーニングと実際の反応のズレを小さくしていく作業である。
この考え方に近いものとして、スペイン・レオン大学のDaniel A. Boullosa博士らは、トレーニングのモニタリングにおけるfine-tuning approachを提案している[2]。この論文では、トレーニングのモニタリングを、単に数値を集める作業としてではなく、計画されたトレーニングが実際にどのように遂行され、選手にどのような反応を生じさせているかを把握するプロセスとして捉えている。具体的には、複数のツールを、現場で選手を支える人たちの経験・知識と組み合わせて用いることで、トレーニング負荷と適応との関係を理解しようとする取り組みである。
この考えをトレーニング現場に広げて考えると、科学的トレーニングとは、何か一つの指標に従うことではなく、複数の情報を照らし合わせながら、判断の精度を少しずつ高めていく作業である。
ただし、ここで見落としてはいけないのは、情報をただ示せばよいわけではなく、受け取る側の状態や関係性によって意味が変わるということである。同じデータを見ても、「自分の状態を知る材料」と受け取る選手もいれば、「否定されている」「自由を奪われている」と受け取る選手もいる。データに基づいた同じアドバイスでも、「改善のヒント」と受け取る選手もいれば、「自分のやり方への批判」と受け取る選手もいる。選手本人のみで完結しない科学的トレーニングは、指導者、あるいはサポートスタッフとの間で情報をやり取りしながら進める以上、受け取る側の心理状態や周囲との関係性の影響を強く受ける。
「お前には言われたくない」問題
特に難しいのが、「お前には言われたくない」という感情である。
人は、他者から何かを言われたとき、内容そのものだけでなく、「誰に言われたのか」を意識的にも無意識的にも判断材料にしていると思う。例えば、「この練習は少し強度を落とした方がよい」「もう少し回復を優先した方がよい」といった助言があったとする。その内容が妥当であったとしても、選手の中で「この人には言われたくない」という感情が働いた瞬間、その言葉はとたんにノイズになる。
「お前には言われたくない」と思う理由は、人それぞれである。「その競技をやったことがない人に言われたくない」「自分より良いタイムを出したことがない人に言われたくない」「自分のことを十分に見ていない人に言われたくない」「現場を知らない研究者に言われたくない」「昔の実績だけで語る人に言われたくない」などなど。
筆者自身の経験を話そう。筆者はこれまで、主として陸上競技長距離走に取り組むアスリートをサポートしてきた。そこで実施していたのは、筆者なりの科学的なサポートである。筆者は陸上競技部で競技者として育ってきた人間ではない。学生時代の部活動も陸上競技部ではなかった。それでもサポートが成立した理由は、筆者にも完全には分からないが、いくつか思い当たることはある。
ある選手は、競技成績が向上した後に、筆者が陸上競技の未経験者であることを初めて知った。言い換えれば、その選手は筆者を少し勘違いしていた。その勘違いによって、「その競技をやったことがない人に言われたくない」というノイズが発生しなかったのかもしれない。
また、陸上競技をやっていなかったわりには、マラソンをそれなりに走れていたことも、良い方向に働いた可能性がある。もし陸上競技部で長く専門的に取り組んでいた上で同じ記録だったなら、「それでその程度か」と見られたかもしれない。陸上競技経験がないにもかかわらず、それなりに走れているとなると、「何か工夫しているのかもしれない」と受け取られた可能性もある。競技歴の欠如が、少し不思議な説得力になったのかもしれない。加えて、この分野で博士号を取得していたことや、ランニングに関する研究業績があったことも、多少は効いていたのだろう。
要するに、選手から見たときに、「この人なら、とりあえず話を聞いてもよい」と思える何かが筆者にはあった。自惚れかもしれないが、それっぽく説明できる能力、日々のコミュニケーションの豊かさ、そして選手について無駄に詳しいという関心の高さが、信頼の入口になっていたようにも思える。
「その競技をやったことがあるか」や「自分より良い成績を出したことがあるか」は、助言を受け入れるうえで重要な要素にはなり得るが、それだけで決まるわけではない。反対に、それらが不足していても、別の形で信頼を得られれば、科学的トレーニングは成立し得る。
ここで大切なのは、「お前には言われたくない」という感情を、わがままと片づけないことである。アスリートは、自分の身体、時間、キャリアを賭けて競技に取り組んでいる。特に実績のある選手であれば、自分が最も理解しているという自負もあるだろう。そのような選手が、これまでの成功体験とは異なる助言を受けたとき、素直に受け入れられないことがあっても不思議ではない。それは単なるわがままというより、自分の判断や積み重ねてきたものを否定されたくないという、ある意味で自然な反応である。
選手本人だけで完結しない科学的トレーニングの難しさは、まさにここにある。どれほど精緻なデータを示しても、どれほど信頼性の高い論文を引用しても、選手が「お前には言われたくない」と感じていれば、所詮はノイズである。
科学的トレーニングのボトルネックとは?
こうして考えると、科学的トレーニングのボトルネックは、意外なところにある。私たちはつい、より正確な測定機器、より多くのデータ、より新しい論文、より高度な分析手法があれば、トレーニングはもっと科学的になると考えがちである。低酸素室に入れば科学的、高地に行けば科学的、デバイスを増やせば科学的。そんなに話が単純なら、科学的トレーニングはずいぶん簡単である。しかし、それらを取り入れたからといって、科学的に考えているとは限らない。現場で最後に詰まるのは、選手自身がその情報を吟味し、自分事として受け取れるかどうかである。
スポーツの特性上、科学的トレーニングの入口がデータであっても、出口は必ず人間である。だからこそ、科学的トレーニングで成果を上げるには、指導者やサポートスタッフ、そして選手自身の、人を読み、対話し、微調整する能力が不可欠である。ボトルネックは、ずいぶん人間くさいところにある。
独立研究者(KDDI総合研究所リサーチフェロー) 髙山 史徳
[1] デジタル大辞泉. https://www.weblio.jp/content/%E7%A7%91%E5%AD%A6
[2] Boullosa D, Claudino JG, Fernandez-Fernandez J, et al. The Fine-Tuning Approach for Training Monitoring. Int J Sports Physiol Perform. 2023;18(12):1374-1379. Published 2023 Sep 9. doi:10.1123/ijspp.2023-0154