研究員がひも解く未来

研究員コラム

世界陸上とMGCのマラソン連戦は可能なのか?

今月、世界陸上選手権大会(世界陸上)がハンガリーの首都ブダペストで開催される。9日間の大会日程のうち、42.195kmを走るマラソンは、女子が8日目、男子が最終日に行われる。日本からは、男女各3名の代表選手が出場予定だ。

また、パリ五輪のマラソン代表選手選考会であるマラソングランドチャンピオンシップ(MGC)の出場予定選手も先日発表された。MGCには世界陸上の代表選手6名を含む92名のトップランナーがエントリーしている。世界陸上とMGCの間隔は、7週間(女子:50日、男子:49日)である。

トップランナーがマラソンを短期間に繰り返し走ることに対して、昔から否定的な見方がある。例えば2016年、福士加代子氏(当時は選手)がリオデジャネイロ五輪の代表選考レースの大阪国際女子マラソンで優勝したものの、代表の座が不確実として、6週間後に開催される名古屋ウィメンズマラソンに出場する意向を示したところ、「無謀で無意味」といった言葉が陸上関係者から挙がった。最終的に福士氏は名古屋ウィメンズへの出場を取りやめたが、この際に競技連盟の専務理事は、『大阪国際女子マラソンの身体的なダメージを考えると、今回の判断は的確だと思います。まずは疲労を抜いて、万全の状態で次の目標へ向けて再始動してもらえればと思います』とコメントしていた[1]

こういったケースでは、代表選考が絡むことで感情論が先行しがちな上、ダメージや疲労の扱いが曖昧になっているようにも感じる。そこで今回は、マラソン後のリカバリーについて、エビデンスとアネクドート(逸話)を振り返りながら、トップランナーが短期間に繰り返しマラソンを走れるのか、筆者なりに考えてみたい。

エビデンス~マラソン後のダメージと回復~

マラソンを走ることで生じる代表的なダメージとしては、筋肉へのダメージが挙げられる。筋肉へのダメージは、レース前後にわたり血液マーカーや筋力、筋肉痛を測定し、統計学的有意差をもとに、その程度や回復状況をみている研究が多い。それらの研究結果を眺めると、レースの1~3日後にはダメージが確かに生じているものの、1週間後には回復しているものが多い[2]

また、マラソンの記録に深く関わる生理学指標として、最大酸素摂取量、ランニングエコノミー、酸素摂取水準がある。生理学指標は、ランニングをしなければ測定できないため、より詳しい回復状況を洞察するもとになる[3]。11名の一般ランナーを対象とした論文[4]では、レースの前と7日後の生理学指標には差がなかった。論文の著者らはこの結果をもとに、マラソンのパフォーマンスに関係する生理学指標がレース後7日以内には回復すると結論付けた。

このように、マラソンによる身体的なダメージや疲労は、意外と早期に回復する。こういった研究データのほとんどは、トップランナーを対象としていない点に注意しなければならないが、短期間に繰り返しマラソンを走ることは本当に無謀なのだろうか?

アネクドート~連戦で結果を残したマラソンランナー~

次は短期間に繰り返しマラソンに出場したトップランナーをみていきたい。最初に取り上げるのは、川内優輝選手。短期間でレースを走りながら、今なお多くの人を魅了し続ける川内選手の成績は枚挙にいとまがないが、ここでは一例を挙げておく。2013年2月3日に当時の自己最高記録で優勝した別府大分毎日マラソンの16日前にはエジプトでマラソンを走っていた。さらに、別府大分毎日マラソンの6週間後に出場したソウル国際マラソンでは、自己最高記録をまたも更新した[5]

次に挙げるのは、アメリカが誇る長距離走者のGalen Rupp選手。Galen Rupp選手は2005年前後から現在に至るまで、15年以上にわたり世界のトップで活躍し続け、マラソンでもリオデジャネイロ五輪で銅メダルを獲得している。Galen Rupp選手の自己最高記録は2018年5月6日に出場したプラハマラソンで優勝した際の記録[6]であるが、興味深いことに、彼はこの20日前にボストンマラソンを30km過ぎで途中棄権している。ただでさえ、レースの前半に激しい下り坂が続くボストンマラソンは、筋肉へのダメージが起きやすい上、この年は、低温、雨、強風といった悪天候の中で開催された。Galen Rupp選手は、その厳しいレースで30km以上走り続けた約3週間後に最高のパフォーマンスを発揮したのである。また、彼は2021年に東京五輪でマラソンに8位入賞した9週間後にもシカゴマラソンで2位に輝くなど、連戦に強い選手である[7]

シドニー五輪の金メダリスト、高橋尚子氏(当時は選手)の逸話にもふれておく。高橋氏は、2001年9月30日に開催されたベルリンマラソンで女子選手として初めて2時間20分切りを達成し、世界最高記録で優勝している。実はこのとき、ベルリンマラソンの1週間後に開催されたシカゴマラソンにも出場を計画していたが、陸上関係者から無謀と指摘されたこともあってか、そのプランは実行されなかった。ちなみに、この年のシカゴマラソンではキャサリン・ヌデレバ氏(当時は選手)が世界最高記録を約1分更新し、高橋氏の記録は1週間で破られた[8]。高橋氏を指導していた故・小出義雄氏は自著の中で『(前略)シカゴを走っていればベルリンでマークしたタイムを1~2分は縮めて、2時間17~18分で走れたはずだと、今でも思っています』と振り返っている[9]

トップランナーの多くは年に1~2回しかマラソンに出場しないため、ここで示したのはあくまでも少数派である。しかし、アネクドートからみても、世界陸上とMGCの両大会で優れたパフォーマンスを発揮するのは十分可能と言える。

鍵は体と心への負荷のマネジメント

そもそも、トップランナーの中には大会前には40km程度の長距離走を行う者も多く、数週間前にマラソンを走るか否かで、ランニングの量は大きく変わらない。もちろん、練習として走る長距離走と本気で走るマラソンとでは強度が異なるものの、体への負荷は前後のトレーニングメニューを調整することで十分に対応できる[10]

それよりも、鍵となるのは精神面、心への負荷になる。ただでさえ重圧のかかる競技スポーツの世界で、限られた代表枠を国の代表として出場する選手には高い期待と関心が寄せられ、メディアの報道も大々的になりやすい。その熱狂に応えられるか否かに関わらず、選手にかかるプレッシャーは大きく、想像をはるかに上回るメンタル疲労がときに生じる。

アスリートをサポートしてきた筆者の経験則にはなるが、アスリートのコンディションが崩れた理由を後から分析してみると、単純な体への負荷の大きさではなく、心への負荷やそれらが相互に影響し合った結果、許容範囲を超えてしまったケースが意外と多い。

いずれにしても、トップランナーが最高のパフォーマンスを発揮するには、単に身体のダメージや疲労から回復するだけでは不十分であり、ありとあらゆる要因の調整をとおして、ピーキングを成功させることが不可欠となる。両大会で優れたパフォーマンスを発揮する鍵は、体と心への負荷を的確に見積もった上で臨機応変に対応するマネジメント力にあると筆者は考える。

参加資格や選考基準をクリアして出場するトップランナーを暖かい目で応援したい。

KDDI総合研究所 招聘研究員 髙山史徳

◼️参考文献
[1] スポニチアネックス (2016) 福士、名古屋ウィメンズ欠場を発表「総合的判断の結果として」.2023年8月7日閲覧 https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2016/03/01/kiji/K20160301012133680.html

[2] 髙山史徳, & 鍋倉賢治. (2018). マラソンレースが身体に及ぼす影響. 体力科学, 67(4), 269-279.

[3] 生理学指標については、過去のコラムで説明している(マラソン観戦のワクワクドキドキを高めるICT活用法 2022-09-21.https://rp.kddi-research.jp/atelier/column/archives/763

[4] Takayama, F., Aoyagi, A., Shimazu, W., & Nabekura, Y. (2017). Effects of Marathon Running on Aerobic Fitness and Performance in Recreational Runners One Week after a Race. Journal of sports medicine (Hindawi Publishing Corporation), 2017, 9402386.

[5] 各大会の記録はエジプト国際マラソンが2時間12分24秒、別府大分毎日マラソンが2時間8分15秒、ソウル国際マラソンが2時間8分14秒

[6] 2時間6分07秒

[7] 各大会の記録は東京五輪が2時間11分41秒、シカゴマラソンが2時間6分35秒

[8] ベルリンマラソンの高橋尚子氏の記録が2時間19分46秒、シカゴマラソンのキャサリン・ヌデレバ氏の記録が2時間18分47秒

[9] 小出義雄 (2013) レースの「はしご」で自己ベストを目指す.『30キロ過ぎで一番速く走るマラソン サブ4・サブ3を達成する練習法』,第1刷,株式会社KADOKAWA、125-128.

[10] 負荷、強度、量については、過去のコラムで説明している(勝ち続けたオリンピアンの秘訣 2023-02-10.https://rp.kddi-research.jp/atelier/column/archives/1138