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ICT・データ活用は「観光」をどう変えるか ②

執筆者: Nextcom編集部
カテゴリ: 特集連動記事
発行日: 2026/06/08

前回に引き続き、AI研究をリードしてきた京都橘大学の松原仁教授に伺いました。

(2026年1月29日 京都にて。聞き手:Nextcom編集長 加藤尚徳)

「複雑系」への挑戦と研究の面白さ

加藤:学会が利害の中立性を保つ「ハブ」として機能している、というお話は、アカデミアの社会的な役割を考える上で非常に重要ですね。一方で、研究者個人にとって、研究対象としての「観光」には、どのような難しさや面白さがあるのでしょうか?

松原先生:観光は誰にとっても身近なテーマで、一見とっつきやすそうに見えます。学生にも研究テーマとして与えやすい。しかし、本質的な成果を出すのは、実は非常に難しい分野です。なぜなら、観光は社会の様々な要素が絡み合った「複雑系」だからです。

例えば、理系の実験室での研究であれば、他の条件(パラメータ)をすべて固定した上で、ある一つの条件だけを変えて、その効果を測定することができます。「Aという条件を加えた場合」と「加えなかった場合」を厳密に比較できるわけです。しかし、現実の社会、特に観光のような分野では、そうはいきません。ある観光施策を「やってみた」として、その結果しか我々は観測できません。「もし、その施策をやらなかったらどうなっていたか」という世界は、存在しないからです。

加藤:それは、社会科学の研究が常に直面する難しさですね。私も情報学の大学院で、社会科学的なアプローチの研究を発表した際に、理系の先生方から「それは比較ができないから、科学的な研究とは言えない」と、厳しく指摘された経験があります。

松原先生:そうなんです。情報系の研究者から見れば、その「割り切れなさ」は、もどかしさや研究のしにくさを感じる部分かもしれません。しかし、私から見ると、この「割り切れなさ」こそが、実は新鮮で挑戦しがいのある魅力なんです。

これまでの理系の研究は、ある意味で、そうした複雑で割り切れない現実世界の問題から「逃げていた」側面があるとも言えます。クリーンで条件統制された世界に閉じこもるのではなく、現実世界そのものに、自分たちの情報技術でどう向き合い、どう貢献できるか。観光は、そのための格好の題材を提供してくれます。社会が本当に良くなるってどういうことか、ある数値が数パーセント上がることが本当に「良い」ことなのか、そういった根源的な問いを突きつけられる。そこに、この分野の研究の難しさと面白さが凝縮されています。

加藤:現実世界と向き合う面白さに加えて、何か別の魅力もあるのでしょうか?

松原先生:新しい技術を試す「実験場」としての魅力も非常に大きいですね。古くは、GPSがまだ一般的でなかった頃、観光客にお願いしてGPSロガー装着してもらい、行動を追跡する、といった研究を函館でやっていました。SNSが普及すればその投稿データの分析が盛んになり、そして今、生成AIが登場すれば、それを活用した観光プランニングの研究が次々と生まれています。

このように、観光という分野は、常にその時々の最新技術をいち早く取り入れ、その有効性を試す場としての役割を担ってきました。ある技術の専門家が、観光情報学会でその技術の応用を試す。そこで得た知見や課題を、今度は自分の専門分野に持ち帰ってフィードバックする。こうした異分野間の知の循環が、学会全体のダイナミズムを生み出しているのです。観光という一つのテーマを軸にしながら、多様なバックグラウンドを持つ研究者が集まっているのは、そうした理由も大きいと思います。

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京都橘大学工学部教授、情報学教育研究センター長を務める松原先生

観光と災害は紙一重という視点

松原先生:現実社会に向き合うということで気になっているのが天候不順や地震などの災害です。1月の北海道の大雪では、交通網の運休のため7,000人の旅行客が新千歳空港で一夜を過ごしました。観光客が一瞬にして罹災者になるという、まさに観光と災害は紙一重といえる事例です。全員が観光客ではないでしょうが、災害時の情報技術の活用は以前からも議論されています。

加藤:先生がおっしゃった「観光と災害は紙一重」という言葉が非常に印象に残りました。私自身、普段の業務で個人情報保護に携わる中で、災害時の個人情報、特に観光客のような「非居住者」の情報の扱いの難しさを感じており、このテーマには強い関心があります。この「紙一重」という点について、詳しくお聞かせいただけますか。

松原先生:観光と災害は、表裏一体の関係にあります。災害が発生した際、その土地に不慣れな観光客は、避難場所や交通手段、言語の壁などから、最も困難な状況に陥りやすい「情報弱者」になります。

先の北海道の大雪の際、JRが運休し、臨時の代替バスが運行されたのですが、私の知人がそのバスに乗ったそうです。しかし、そのバスの行き先が「大谷地(おおやち)ターミナル」とだけアナウンスされた。地元の人なら、そこがバスターミナルで、地下鉄に乗り換えれば札幌市内のどこへでも行けるとわかります。でも、土地勘のない観光客は「え、札幌駅行きじゃないの?」「大谷地ってどこ?」「私たちのホテルへはどうやって行けばいいの?」と、車内が騒然となったそうです。

加藤:うわ、それは目に浮かぶようです。バスは特に、土地勘がないと本当に難しいですよね。バス停の名前がわかっても、どのタイミングで降車ボタンを押せばいいか分からなかったり…。

松原先生:まさに。函館の五稜郭の交差点には、4方向にそれぞれ「五稜郭」という名前のバス停があるのですが、行き先によって乗るべきバス停が全く違う。トランクを持った観光客が、違う方向のバス停でじっとバスを待っている姿をよく見かけました。これも、日常に潜む小さな「災害」のようなものです。

しかし、視点を変えれば、こうした課題は、平時の観光情報提供のあり方を見直すことで、解決の糸口が見えてきます。平常時に観光客向けに提供している多言語の交通案内や施設情報、人流データといった情報基盤は、そのまま災害時の避難誘導や情報提供に応用できるはずです。平時と有事を分断して考えるのではなく、同じ情報基盤でシームレスに対応を考える「フェーズフリー」という発想が、これからの観光と防災には不可欠なのです。

加藤:フェーズフリー、重要な考え方ですね。しかし、現実には自治体の災害対策というと、どうしても住民が対象で、観光客は想定から漏れてしまいがちです。私が以前、高知で津波対策の現地調査をした際も、同僚と「もし今、ここで被災したら、我々の存在は忘れ去られてしまうのではないか」と話していました。

松原先生:それは非常に現実的な問題です。自治体は、住民名簿は持っていますが、その日たまたま訪れていた観光客の名簿はありません。そうなると、災害時、観光客の安全確保の最後の砦となるのは、宿泊施設です。宿泊施設は、泊まっているお客様の安全を守る義務がありますから。しかし、それは本来、宿泊施設だけで背負うべき問題ではないはずです。

コロナ禍において、観光業は不要不急の産業として厳しい立場に置かれましたが、有事の際には、このように観光に携わる人々が突如としてエッセンシャルワーカーとしての重責を担わされる。この構造的な課題を解決するためにも、情報通信技術を活用して、平時から観光と防災を一体で捉え、社会全体で観光客の安全を守る仕組みを構築していくことが、極めて重要だと考えています。

(次回に続く)

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松原先生(左)とNextcom編集長加藤(右)

松原 仁 Hitoshi Matsubara
京都橘大学 工学部 教授/情報学教育研究センター長
1986年、東京大学大学院工学系研究科博士課程修了。同年、通商産業省電子技術総合研究所(現・産業技術総合研究所)に入所。将棋をはじめとする人工知能研究の先駆者として知られ、世界的なロボット競技大会「ロボカップ」の設立にも尽力。公立はこだて未来大学教授、東京大学大学院教授を経て、2024年より現職。現在は情報学教育研究センター長を務める。コンピュータ将棋協会会長、元人工知能学会会長、元ロボカップ日本委員会会長